2011年2月9日水曜日

東京スナック飲みある記


もう50年以上、東京で生活しているのに、行ったことのない町がたくさんある。入ったことのない本屋もレコード屋も、食べたことのない定食屋もたくさんある。それから、飲んだことのないスナックも! 東京はひとつの都市じゃない。イクラのつぶつぶみたいに小さな町がくっつきあった、ぐちゃぐちゃの巨大な集合体だ。

夜、知らない町に降りたって、看板の灯りに惹かれてスナック街を歩くのは、夜間飛行にちょっと似ている。眠れないままに窓の外を眺めると、真っ暗な大地にぽつんぽつんと明かりが見える。ああここにもだれかが住んでるんだな、いまなにしてるんだろう。そうして退屈なフライトが、少し楽しくなってくる。

閉ざされたドアから漏れ聞こえるカラオケの音、暗がりにしゃがんで携帯電話してるホステス、おこぼれを漁るネコ・・。東京がひとつの宇宙だとすれば、スナック街はひとつの銀河系だ。酒がこぼれ、歌が流れ、今夜もたくさんの人生がはじけるだろう場所。

東京23区に、23のスナック街を見つけて飲み歩く旅。これから毎週チドリ足でお送りします。よろしくお付き合いを!

第2夜:世田谷区・三軒茶屋三角地帯

プリンのかぶりもので妙なコミックソングを歌う、AVEX唯一の演歌歌手ふたり組・東京プリンに『三軒茶屋の女』という歌があった。信じれるのはお金と犬だけ、渋谷から電車で5分、六本木からタクシーで20分、こんなところに住んでる女は所詮は無理め・・みたいな歌詞だったと思うが、しかし! 世間様が三軒茶屋に抱くイメージって、こんなに「無理め」なんだろうか。

246と世田谷通りが別れる三軒茶屋の通称「三角地帯」は、向かいのキャロットタワーが威圧するようにそびえる足元で、いまだ迷路のような路地が縦横に走り、初心者を途方に暮れさせる。それはもう数少なくなってしまった、終戦直後の闇市時代のなごりをとどめる、都心部では貴重な文化遺産だ。世田谷区というブランドイメージ、「渋谷から5分、六本木から20分」という交通至便なロケーションは、外から見れば無理めな女が住む街かもしれないが、内で飲み暮らすものにとっては、どこの小便横町にも負けない(失礼!)、昭和的な居心地よさのなかで夜ごと酔い潰れられる、フトコロ深い街なのだ。



1969(昭和44)年3月22日の三軒茶屋三角地帯を、車窓から望む。
まだ首都高のないころ。正面に写る路面電車・玉電は同年に廃止された。
(画像提供/まぼろしチャンネル、都電さん)

2011年の三軒茶屋。協和銀行がBIG ECHOになっている。

246の上を走る首都高を、渋谷から用賀方面に走って三軒茶屋に差しかかっても、見えるのはキャロットタワーとサンタワーズというふたつの高層ビル、それに大きなマンションだけだ。そのあいだの、ぽっかり空いた穴。それが三茶の三角地帯である。

キャロットタワーがそびえる、お膝元の三角地帯

世田谷通りから三角地帯の奥へ伸びる路地。
昭和へのタイムトンネルだ。

もともと三軒茶屋は関東大震災後に、当時渋谷と二子玉川を結んでいた玉電(玉川電気鉄道)があったことから、交通至便の地として人口が急増した街だという。ちなみに三軒茶屋が正式な地名になったのは、世田谷区が誕生した1932(昭和7)年だが、軍事施設が集まっていたことから(砲兵連隊群、駒沢練兵場など)、空襲を受け大きな被害を受けた。しかし終戦直後から焼け跡にバラックの商店街が出現、1950(昭和25)年にはいまの三角地帯の中核となる、仲見世商店街が建設されている。

いまはまとめて田園都市線と呼ばれるようになったが、2000年までは「新玉川線」と言っていた渋谷からの地下鉄に乗り、いちど地上に出て、田舎のローカル線みたいな路面駅だった世田谷線(みんな玉電と呼んでいた)に乗り換える。そのあいだに通るごちゃごちゃした三茶の街並みには、ちょっとしたタイムスリップ感を喚起する楽しさがあった。何年同じものを並べてるんだろうと、首をひねりたくなる個人商店。スナックのドアの前に置かれたオシボリ籠。食堂から路地に流れ出す煙と湯気。三本立ての名画座。屋上のバッティングセンター。肩をぶつからずにはすれちがえなさそうな路地・・。


三軒茶屋にはかつて5軒の映画館が集客を競っていた。いま残っているのは2軒だけ。
三角地帯のランドマーク的存在である三軒茶屋中央劇場は、古き良き2本立て名画座。

清水崑先生の黄桜を思わせる河童の看板が、あまりにも印象的。

切符売り場、板に手書きの演目・・これが名画座ってもんです。

かつて三茶中劇と並んでいた三軒茶屋東映は、三軒茶屋シネマと名前を変えてビルの上に。
1階は「肉のハナマサ」だ。

そういう、街の迷宮に絡め取られたい僕らには最高に居心地がよくて、きれいでお洒落で現代的なコンクリートとガラスの街を理想とする行政とディベロッパーには最悪に目障りだった、昭和の匂いの三軒茶屋。そこに再開発の波が押し寄せるようになったのは、実は1980年代中ごろからのこと。

三茶の一帯が5つの再開発区域に分割され、まず1985年に、世田谷通りの北側にある西友三軒茶屋店(元・ams西武三軒茶屋店)。そのあと1992年に246に面した三角地帯の用賀寄りにあるサンタワーズが建ち、1996年にはキャロットタワーが完成(これによって、世田谷線の駅は田園都市線の三軒茶屋駅から遠ざかり、乗り換えが不便になってしまった)。そして残るふたつが、キャロットタワーと西友に挟まれた、すずらん通りのある北側の一角(太子堂側)と、今回飲み歩く三軒茶屋2丁目の三角地帯なのだ。


いつ見てもドキドキする千代の湯入口。しかし現在も立派に営業中。


トタン板の塀には、立ち小便禁止の鳥居マークが。
しかしいまどきの若者に、意味がわかるだろうか。

再開発事業開始から20余年、ついに魔手が三角地帯にまで伸びてきたわけだが、地権者の数が多ことや(50人以上)、反対派もまだ2割ほどはいるらしく、なかなか実施に至らないのだとか。ひと安心と言いたいところだが、報道によれば、計画が進まないことにしびれを切らした賛成派地権者やディベロッパーが、全部で1.7haある三角地帯再開発エリアを東西ふたつに分け、とりあえず西側から先行実施、商業、事務所、住宅を兼ねた再開発ビルを建設する方向で、検討が進んでいるという。

ひとつでも巨大ビルが出現すれば、迷宮路地歩きの楽しみは消滅してしまうことは、キャロットタワー(しかしなんという命名だ!)でもおわかりのとおり。ある日突然取り壊されてしまう前に、東京都心部にいまだ残る貴重な昭和遺産を、こころゆくまで味わい尽くしておきたい。
来週は高円寺を飲み歩きます。

迷宮への入口。見上げれば白い手ぬぐいが夜風にたなびく。



強烈なオーラを放つ店が少なくない。

将棋好きが集まる店として有名な『赤トンボ』。
ショーウィンドウに、いつも見とれてしまう。


6つある三茶小路飲食店街への入口。しかし看板はものすごくわかりづらい。

三角地帯には「三茶三番街」、「なかみち街」、「ゆうらく街」、「ふくべ小路商店会」などと、路地ごとに名前がつけられている。なかでも迷路というか、迷宮感の激しい「三茶小路飲食店街」から、今夜は飲み歩いてみよう。


二階建て一軒家の『スナック・モナミ』は、これぞザ・スナックという外観で、僕らに「おいで、おいで」と呼びかける。しかし五島列島福江島出身、昭和6年生まれで今年80歳というモナミ・ママの店は、「フリーのお客さんは入れないの、特に男性だけはぜったい断ります」という上級者向け。高校卒業後、上京してまずは渋谷の伝説的キャバレー『渋谷チャイナタウン』で働きはじめ、下北沢で女性バーテンダーとして活躍。45歳のころに三軒茶屋でスナックを開業し、最初のお店を7年間。そのあといまの『モナミ』を開いてすでに28年、休みなしで営業してきた古強者である。

外観からして、こころなごまずにいられないスナック・モナミ。
夜になると、よく近所の猫がドアの前にちょこんと座っている。


ビロードのような布貼りの壁と臙脂色のカーテン、アップライトのピアノ、そしていまも稼働中のレーザーディスク! 高級感漂う店内は、溜息の出るほどノスタルジックで、いちど座ったらもう立ち上がれない居心地よさ。しかもお値段は信じられないほど良心的。ここは「スナック」という現代日本が生んだ庶民文化の、ひとつの完成形でありましょう。
スナック モナミ 世田谷区三軒茶屋2-13-4


しっとりと落ちついた店内。しかし一見さんはなかなか座らせてもらえない。


完璧なコンディションで稼働中のレーザーカラオケ・システム。
三茶でも2、3番目に入れたそうで、初期費用も当時で120万円という高額だったが、
カラオケ代だけで月に40万円の売り上げがあったという。


壁には若乃花、貴乃花の手形色紙。

高級クラブのような、落ちついた雰囲気を醸し出す調度。

モナミの入口脇にも、ひとひとり通るのがやっとの、三茶小路への入口が隠されている。

そのモナミママが、三軒茶屋で最初に開いた店が『スナック谷』。ママをつとめる千賀子ママが、モナミママから引き継いで今年で20年。常連さんからは「三茶の生き神って呼ばれてるの」という、笑顔が素敵なゴッドマザーであります。


ひっそりと看板を掲げるスナック谷。しかしドアの上部がガラスで、
内部が覗けるのは初心者にうれしいポイントだ。


千賀子ママをしたって夜ごと集まるお客さんは多士済々だけど、特に多いのが「国士舘の学生とOB、あと役者」。というわけでカウンター7席の小さな店でありながら、壁という壁は演劇のポスター、チラシ類が幾重にも貼り重ねられ、コラージュ・アート作品のようでもある。「でもね、ただ上から貼るんじゃなくて、お客の役者の名前が見えるようにずらしてあんのよ」と、優しい心遣いを忘れない。
路地のたたずまい、店内の密度、どこをとっても絵になる『谷』は、刑事物などドラマのなかで「怪しい場所として」よく使われるそうで、2008年には草薙剛と田中麗奈の『猟奇的な彼女』TVドラマ版でもロケ場所になったとか。
スナック 谷 世田谷区三軒茶屋2-13-5


ご自慢のピンク電話(お願いするとカウンター下から取り出してくれる)千賀子ママと、
常連さんのふたり。響大祐さんと翁長(おなが)誠さん、
どちらも役者兼売れっ子ナレーターだ。

ドアにも壁にも、演劇のポスター、チラシが張り巡らされて、
見ているだけで楽しい雰囲気。


前はレーザーカラオケを置いていたコーナーにはタバコ・・じゃなくて、
自販機用のプラスチック・モデルが。なぜここに?


夜ごとの盛り上がりを想像させるトイレ内の貼り紙。

そして最後に辿り着くのはいつも、おそらく三軒茶屋最古の現役スナック『オスカー』。看板に「BAR」とあるとおり、ドアを開ければすっと奥まで伸びたカウンター。白髪の渋いマスター。白いクロスを掛けたスツールと、いかにもクラシカルなバーのたたずまいだが、ちゃんとボトルキープもできれば、最新型のカラオケもあって、夜ごとに常連さんの熱唱が響いている。
ネオンの色、描き文字・・完璧な夜のムードを演出するオスカーの看板

映画音楽とジャズを愛するマスター。カラオケを歌わないときにはCDがBGM。

常連さんも一見さんも、分け隔てない接客がオスカー流。

地元世田谷に生まれ育った白石マスターは、終戦後に進駐軍のバーで腕を磨き、1960(昭和35)年に『オスカー』を開業。若いころは年間200本以上は見てた、という洋画マニアだったことから、『オスカー』と命名したそう。開店したころは「このあたりにはバーったって1軒しかなくてさ。当時はヤクザもいっぱいいたけど、みんな後輩だったから大丈夫!」というわけで、三茶の名物店として現在まで元気に営業中だ。
昭和9年生まれ、今年77歳の白石マスターに、20年ほど前からは息子さんもカウンターに入るようになって、もう半世紀を超えた店をふたりで守っている。ドアの風格といい、看板の文字といい、初心者には敷居の高そうなレトロ感が漂っているが、実はものすごくフレンドリーなサービス。一見さんでもぜんぜん大丈夫なので、三角地帯飲み歩きのシメには、ここのカウンターで白石マスターに気付けの一杯を作ってもらうべし。
オスカー 世田谷区三軒茶屋2-10-11


白石マスターと杯を交わす、常連のよしこさん。
現在72歳、「でも毎晩飲んでるわよ!」

ART iT ニッポン国デザイン村:アウトサイダーの書

書、あるいは書道とはもともと文化人の素養として発達したものであって、それが「書芸術」になったのは昭和初期から戦後にかけてのことだという。そして解説を読まなくては意味のわからない現代美術があるように、作品タイトルが付されていないと読めない現代書、前衛書があるのはご存じのとおり。「美術としての書」、「造形としての書」という、文字を書いているにもかかわらず読むことのできない、それは抽象としての「書芸術」である。

文字を書くという、本来はコミュニケーションの手段であったものを、芸術として追い込んでいったあげくに「読めない書」というエクストリームに達した書芸術の、正反対のエクストリームにあって、奇妙に近づいているようにも見えるのが「アウトサイダーの書」だ。アウトサイダー・アートのうちで、絵ではなく文字を素材にした作品を便宜的にそう言ってみただけで、画家、書家のような区別はそこにないのだが、障害者と呼ばれる彼らの、文字によって構成された作品には、プロの「書芸術」に勝るとも劣らない緊張感と、書くことへの強い衝動と、得体の知れない美しさが同居していて、現代美術における書というものの存在意義を僕らに考えさせるのである。



齋藤裕一さん

齋藤裕一 「ドラえもん」(2005)色鉛筆、紙39.6x54.8cm 個人蔵

松本国三「無題」(2002)ペン、手帖、ノート:160 x 120 mm 見開き:155 x 230 mm

松本国三さんとお母さん

作品写真提供:小出由紀子事務所 http://www.yukikokoide.com/

2011年2月2日水曜日

新連載! 東京スナック飲みある記



もう50年以上、東京で生活しているのに、行ったことのない町がたくさんある。入ったことのない本屋もレコード屋も、食べたことのない定食屋もたくさんある。それから、飲んだことのないスナックも! 東京はひとつの都市じゃない。イクラのつぶつぶみたいに小さな町がくっつきあった、ぐちゃぐちゃの巨大な集合体だ。


夜、知らない町に降りたって、看板の灯りに惹かれてスナック街を歩くのは、夜間飛行にちょっと似ている。眠れないままに窓の外を眺めると、真っ暗な大地にぽつんぽつんと明かりが見える。ああここにもだれかが住んでるんだな、いまなにしてるんだろう。そうして退屈なフライトが、少し楽しくなってくる。


閉ざされたドアから漏れ聞こえるカラオケの音、暗がりにしゃがんで携帯電話してるホステス、おこぼれを漁るネコ・・。東京がひとつの宇宙だとすれば、スナック街はひとつの銀河系だ。酒がこぼれ、歌が流れ、今夜もたくさんの人生がはじけるだろう場所。


東京23区に、23のスナック街を見つけて飲み歩く旅。これから毎週チドリ足でお送りします。よろしくお付き合いを!


第1夜:品川区・武蔵小山飲食街

目黒線が「東急目蒲線」と呼ばれていたころの武蔵小山には、独特に昭和を感じさせる空気があった。目黒から蒲田まで、東京都心部を迂回するようにくねくね延びた地味な路線の、地味な駅。でも駅前商店街パルムは、昭和31(1956年)の第1アーケード完成時には「東洋一」と称えられ(そのカンムリ自体がすでに昭和っぽいが・・最後のアーケード完成は1981年)、いまも都内最長、800メートルに及ぶアーケードに約250店舗の商店が軒を連ねている。


1958年8月、上空から眺めた武蔵小山駅前。中央にあるのがアーケード商店街、左側が飲食街になる。
写真提供/毎日新聞社

そしてパルムと同じ南側(東口)の線路脇には、その名も「飲食街」と単純明快な名前のついた、都内有数のスナック密集地帯があった・・・いや、いまもあるのだが、目蒲線が2000年に目黒線になって都心部と地下鉄で直結し、さらに古い駅舎が2010年に新しい駅ビルになって無印良品や東急ストアが出店したあたりから、急激にその”昭和フレイヴァー”を失いつつある。

駅前の不動産店頭。交通の便がよくなって、若いふたりにも人気の街・・

「東洋一」とうたわれたパルム商店街。

パルム商店街の名物店のひとつ、婦人服の『リバー』は、超派手な衣装で有名。
いまはカラオケ発表会用のドレスが主流だとか

こんな懐かしいたたずまいの本屋さんもある


『東京のしゃれた街並みづくり推進条例 』という名前の条例を、ご存じだろうか。「しゃれた」なんて言葉が、お堅い条例に使われることからしてセンスが疑われるように、東京都が2003年に制定したこの条例は――

都市計画法(昭和43年法律第100号)等の適切な運用を図りながら、東京都民(以下「都民」という。)、事業者及びまちづくり団体(以下「都民等」という。)の意欲と創意工夫をいかして、個性豊かで魅力のあるしゃれた街並みを形成するための制度を整備することにより、都民等による主体的な都市づくりを推進し、もって都市の再生を進め、東京の魅力の向上に資することを目的とする。(第1条)

というわけで、古ぼけて小汚い商店街や飲み屋街を、お役人とディベロッパーの手によって「しゃれた街並み」につくりかえてあげましょうという、いま第二の列島改造のように全国各地で起こっている、高機能高収益化=画一化作戦の後押し政策である。そして本条例によって『街並み再生地区』に指定された、つまり東京都庁によって「ダメでしょ、ここは」の烙印を押された第1号が、武蔵小山駅東地区(2004年)。駅前の裏手から線路沿いに広がる、迷路のようなスナック街なのだ(ちなみに第2号は南池袋地区)。



駅改札を抜けて東口の地上に出ると、ロータリーを挟んだ目の前に、立ち食い焼き鳥の名店『鳥勇』が、いつも変わらぬおいしそうな煙を吐き出している。鳥勇脇の路地を入っていけば、そこがもう「武蔵小山飲食街」。ずーっと昔は大きな料亭や、生バンド入り・ダンスフロアにヌードダンス・ショーまで付いた『天国』というクラブもあったという。


1978年に発行された『荏原警察署五十年史』には、「キャバレー1軒、バー14軒、その他スナック等が162軒あり、このことから夜間に入ると酔客によるけんか、金銭のトラブル等、毎夜事件が絶えない」とあり、夜ごとのにぎわいが想像できるが、そんな「毎夜事件が絶えな」かったのも、いまは昔。紫や黄色の看板が路地を照らす、迷路のように入り組んだ飲食街を埋めるスナックが、いまではだんだんと小さな風俗店や、ガラス張りのスタンディング・バー、エスニック料理の店などに変わりつつある。


飲食街のど真ん中は、すでに地上げでポッカリ空いた土地が駐輪場になってしまった。自分のチャリを取りに向かう通勤通学者たちが急ぎ足で行き交い、わずかに残った客引きのオヤジも肩身が狭そう。かつての妖しげなスナック街の雰囲気は、薄れるいっぽうだ。「あと数年で、このあたり全部なくなって、大きなビルになっちゃうからねぇ」と、ある老舗スナックのママも溜息をついていたが、それでもまだこの界隈で100軒近くのスナックが営業中だというから、密集度から言えば、いまだに都内有数のスナック街であることにはちがいない。



開業して30年、40年という店がざらにある武蔵小山のスナック街は、そうとうに濃いキャラのママさんが君臨しているケースが多く、スナック初心者にはドアを押し開ける勇気がなかなかわかないかもしれない。まずは古めの居酒屋あたりで腹ごしらえをしつつ、気安い店を紹介してもらうのが早道だろう。どこに入ろうかと悩みつつ、スナック看板が林立する路地から路地へと歩き回るだけでも、そうとう「夜のちい散歩」気分を満喫できるが。



武蔵小山はまた、女子プロレス関係の店が多い「女子プロ・タウン」でもある。かつて全女(全日本女子プロレス)の事務所が下目黒にあり、解散時も小山にあったため、もともと武蔵小山に住む女子レスラーが多かったらしい。全女創生期に活躍した巴ゆき子が『ラセーヌ』というスナックを開いていたのを皮切りに、現在でも井上京子の『あかゆ』、ハーレー斎藤と立野記代ペアの『DRINK BAR GOHAN 悟飯』、みなみ鈴香の焼肉店『牛小屋』、影かほるの『めしくぃ亭』などなど。ママさんが個人的に応援しているとかで、ポスターが店内や外壁に貼ってある店もあり、それがプロレスでなく女子プロであるところがまた、場末の哀感を引き立ててると言ったら失礼か。


駅ビルと大規模複合商業施設とタワー・マンションの”しゃれた街並み”に去勢されてしまう前に、かろうじていまも残る妖しき昭和の香りを味わいに、今夜は武蔵小山で飲んで飲まれていただきたい。来週は三軒茶屋に飲みに行きます。


今夜の飲み歩きは、『スナックにゃんにゃん』から。パルム商店街と並行する26号線通りに店を開いて、もう30年。なのに「地主が高層マンションに建て替えるってんで」、惜しくも昨年大晦日に閉店を余儀なくされた。にゃんにゃんの春子ママは、17歳で千葉の九十九里浜から集団就職で上京。自分の店を開く前は、駅前のクラブ『天国』でウエイトレスや、ときにはステージで美声も披露していたそう。「コマ劇場のときは毎年かならず行ってた!」という大の北島三郎ファン。自分で歌うのもサブちゃんオンリーの、硬派で世話好きのママさんです。 
スナックにゃんにゃん 品川区小山4-5-6(残念ながらすでに閉店)


30年間、笑みを絶やさなかった気丈な春子ママ

超アットホームな店内に、名残を惜しむ常連さん

飾り、置物のひとつひとつに思い出がこもる


壁から引っ込んだ棚、手作りの写真コーナー・・すべてが昭和の香り


「うち閉めちゃったから、仲良しの店に連れてってあげる」と、にゃんにゃんの春子ママに案内されたのが、『スナックあなぐら』。26号線通りの、線路を渡った北側にある大きな店。近くの旧店舗から8年前に引っ越したが、なんと創業47年目という武蔵小山きっての老舗スナックだ。
光江ママによれば、「むかしは絨毯バーだったの、それであなぐらって名前にしたのよ」。DVの旦那さまに悩まされながらも、息子ふたりを立派に育て上げ、いまもきりっと着物姿で毎晩、店を切り盛りしているがんばりもの。昔から武蔵小山は町工場の社長さんや、東京電力の社員さんがメインの客層だったが、「最近は若い部下を連れてくるってことがないし、不況だから(お客さん)減ってるわねえ」と嘆息。にゃんにゃんの春子ママと同じく、こんなに長くやってるのに、お酒は一滴も飲めない――「それが長続きの秘訣なのかもね」。 
スナックあなぐら 品川区小山4-1-6 電話03-3711-6797


光江ママを囲んで、スタッフと常連さん

いまでも毎晩、着物で出勤の光江ママ

『あなぐら』は歌自慢のお客さんが集って、夜ごと歌合戦状態

瓶の底に名前を書いて、省スペースのキープボトル棚

昔話に花を咲かせる、武蔵小山の長老ふたり

興が乗れば店内はダンスフロア状態に突入する


武蔵小山飲食街の迷路の奥、『パブスナック ロンシャン』は創業が昭和49(1974)年、今年で37年目という飲食街きっての老舗店だ。上品なインテリア、カウンターにはつねに数名の女の子が立ち、ちょっと見は高そうな雰囲気だが、実は気軽な地元系スナック。なんたって、メニューも「女乳」なんて書いてあるぐらいだし、会計を済ませたらママと女の子が外まで出てきて、火打ち石(!)でカチカチって見送ってくれる。
のりこママは岩手県久慈市出身。三島由紀夫が自決した昭和45年11月25日に「8000円握りしめて」上京、渋谷の名門グランドキャバレー『グランド東京』で3年働いて資金を貯めたあと、自分の店を開いた。以来「ほんとに来年どうしようかって、ずーっと悩みつづけです」と言いながら、いまも実は連日大繁盛の名物スナックである。 
パブスナック ロンシャン 品川区小山3-17-7 電話03-3786-3070


武蔵小山飲食街の老舗店ロンシャン。このあたり、昔は料亭だったらしい

ママのほかに4、5人の女の子が毎晩働いている

メニューならぬ「女乳」。ママの人柄が偲ばれます・・

武蔵小山飲食街の重鎮、のりこママ

東京右半分:金歯にダイヤ埋め込んで、君もきょうからラップスター!

ほんの少し前までは寂れた都心のエアポケットのようだったのが、JR東日本が高架下を『2k540 AKI-OKA ARTISAN』なるデザインショップやカフェのアーケードに模様替えして、急にオシャレな女子っぽいエリアになりつつある(嘆息)上野御徒町。その2k540のお向かいにありながら、「うちの店は影響ありませんから!」と即答してくれる気合いがうれしい<GRILLZ JEWELZ>は、ヒップホップのグリルをオーダーメイドで製造販売する、たぶん日本で唯一の専門ショップだ。


「グリル」とは、料理の名前ではなくて、歯にかぶせる「装飾用金歯・宝飾歯」のこと。1980年代初頭にニューヨーク・ブルックリンの「金歯屋」エディ・プレインによって発明されたと言われ、パブリックエネミーのフレイヴァ・フレイヴなど、東海岸のラッパーたちの熱い支持を得て、全米に広まった。



オーバーサイズのスポーツウェア、野球帽、スニーカーやティンバーランド・ブーツ、「ブリンブリン」と呼ばれる極大ジュエリーといったヒップホップ・ファッションのうちでも、グリルは最強のアピール度を誇るアイテムである。自然の歯と見分けのつかない、ナチュラルな色の差し歯が審美歯科では一般的になっているいまの世の中で、ふた昔ぐらい前のイメージしかない“金歯”という危険なブツに、さらに宝石まで埋め込んだりして、隠すのではなく見せつけるための差し歯を作ってしまう――それはいかにもヒップホップらしい、反逆精神にあふれたスタイルと言えよう。




村上春樹『雑文集』で、『壁と卵』を読む

書店に山積みになっているので、もう手に取ったひとも多いでしょう。村上春樹さんの、いままで単行本に未収録だった作品、未発表の文章、ぜんぶで69編を集めた新刊です。『雑文集』なんて題名と裏腹に、小説とはまたちがう、すごく興味深い文章がたくさん収められていて、その前に出たインタビュー集『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』とあわせて読むと、なにをどう考えながら毎朝ワードプロセッサーに向き合っているのか、どうやってあんなイマジネーションを生み育んでいくのか、そういった創作の根源に少しだけ触れられるような気がしてきます。

『雑文集』には僕の本について村上さんが書いてくれた文章も2編収録されています。『珍世界紀行ヨーロッパ編』の書評『都築響一的世界のなりたち』と、『夜露死苦現代詩』について書かれた『蒐集する目と、説得する言葉』です。限られたページの中で、2編も入れてもらって嬉し涙・・・。

しかし本書の価値は、むろんそんなところにあるのではなくて、なんといっても2009年のエルサレム賞受賞スピーチ『壁と卵』が掲載されていることです。いまだパレスチナと実質的な戦争状態にある、イスラエルという好戦的国家から賞を受けることが発表されると、本人の書いているとおり「国内外で激しい批判があった」のを、覚えている方も多いはず。イスラエルという国家や政治体制と、イスラエル人の愛読者や文学愛好家は別物であるはずなのに、イスラエルにも、パレスチナにすら行くことなく、東京でぬくぬく飲んだくれたりしながら、「賞を受け取れば、イスラエル政府に加担することになる」とか、「パレスチナへの連帯を示すために辞退すべき」とか放言してた”評論家”や”文化人”が、当時どれほどいたことか。

「行くな!」とたくさんの警告を受けたと書いているとおり、あのときイスラエルに行くのは、ものすごく勇気を必要とする選択だったと思います。だって、行かないほうが、どれだけ楽かわからないのだし。そして『壁と卵』は、ほんとうにすばらしいスピーチでした。スピーチの原文(英語)がイスラエルのメディアに掲載されると、ほとんど瞬時に日本の有志たちによって、翻訳文がどんどんウェブ上にアップされ、改訂されていったのも感動的でした。いま考えてみれば、あれはテレビ局や大新聞という既成の文芸メディアが、ウェブを武器とする個人の集合体に、完全に敗北を喫した歴史的な瞬間のひとつだったのかもしれません。

映画『真昼の決闘』をビデオで何回も見直してから、意を決して飛行機に乗ったというエピソードには胸を突かれますが、この5ページほどの短い一文だけで、本書は永久保存版になるでしょう。それがどれほど正しくても、堅く大きな壁になるよりは、壁にぶつかって割れる卵になりたい——そう志す、すべての表現者にとって『壁と卵』は、人生のなかで何度も読み返したくなる宝物になるはずです。

しかし、とここでまた自分のことに戻ってしまうのですが、最近「書評」というものについて、ひさしぶりに考えてしまいました。いままでずいぶんたくさんの本を出して、新聞から小さな雑誌まで、新刊紹介やレビューや、ときには村上さんの文のように、きちんと向かいあってくれた書評をそれなりに載せてもらってきたのですが、このほど出版した『ROADSIDE USA 珍世界紀行アメリカ編』については、レビューが載ったのがいままでなんと『SWITCH』一誌だけ! こうやって書くのも恥ずかしいけれど、こんなの初めての経験でした。

『SWITCH』は担当編集者が僕の本をよく買ってくれていて、それでこの本も「自分で買って気に入ったので、書かせてくれ」とわざわざインタビューに来てくれたのですが、あとはいまだに反応ゼロ。ま、その程度の作品と言われれば返す言葉がないのですが、ほんとうの理由は「いつもとちがって、この本は高すぎて新聞や雑誌の編集部に献本できなかったから」だと、だんだんわかってきました。「送ってくれたら書きます」と言われたことも、何度かありました。

1万円近くする本ですから「買ってくれ」とは言えませんが、でも・・。新聞や雑誌で働くひとたちはよくわかってると思いますが、編集部には毎日たくさんの見本誌や献本が送られてきます。音楽メディアに、たくさんの見本盤が届くように。そうやって届いた「見本」のうちから、おもしろそうなものや、送った側との力関係から編集者がピックアップしたものを、ライターに割り振って書かせる——いま、ほとんどの雑誌の書評欄やブックレビュー・コーナーは、そうやって作られています。音楽誌の新盤紹介コーナーや、ファッション誌のページがそうやって作られるのと同じように。現場に行かない評論家や、身銭を切らない編集者によって。

書く人間が、自分の手と足で本屋(やライブハウスやストリート)から気に入った作品を発掘してきて、それを署名というリスクを背負って評価する——それが本来のレビューというものだと思うのですが、大部数の献本ができたり、(音楽誌やファッション誌の場合はとりわけ広告出稿というかたちで)編集部に影響力を行使できる会社の商品ばかりが、こうしていろんな雑誌の誌面を飾ることになります。そうやって作られた文章に、発見のヨロコビなんてあるわけがありません。

書評に頼らなくても、わかってくれるひとは見つけてくれてると思うので、自分の本のことはどうでもいいのですが、ブログやツイッターの感想文レベルじゃなくて、プロによるちゃんとした、ワクワクさせてくれる書評をもっと読みたい! と思ってるひとって、たくさんいるんじゃないでしょうか。


2011年1月26日水曜日

東京右半分:民謡酒場でコブシに酩酊 後編

高度経済成長期の東京を下支えした出稼ぎ労働者たちにとって、こころの拠りどころとして機能してきた民謡酒場を訪ね歩いて、『民謡酒場という青春』という本にまとめた山村基毅さん。今週は山村さんの案内で、東京右半分にいまも残る4軒の民謡酒場をハシゴしてみた。

浅草 民謡酒場・追分

浅草国際通りと言問通りの交差点から、入谷方面に歩いてすぐ、鶯色(と言うんだろうか?)の外壁がやけに目立つ<追分>は、酒場と言うより料亭のような押し出し。開業が昭和32年。東京に現存する、もっとも古い民謡酒場である。ちなみに同じ浅草の、観音温泉と同年の開業だ。そのころが、戦後の浅草の最盛期ということだろうか。


浅草 民謡の店・みどり

最盛期には20軒以上を数えた吉原の民謡酒場だが、いまも営業しているのはこの<みどり>ただ一軒である。秋田出身の民謡歌手、佐々木貞勝さんと小松みどりさんが、吉原に<みどり>を開いたのが昭和38年のこと。3年後に花園通りを挟んだ浅草側に店を移し、現在まで店を続けている。



向島 民謡の店・栄翠

かつては東京六花街という言葉があったが、いま芸者さんを呼んでお座敷遊びがまともにできるのは、東京では向島ぐらいになってしまった。そういう粋な街で、民謡好きが集まるのが<栄翠>である。



亀戸 民謡酒場・斉太郎

「エンヤートット、松島〜のっ」とやるのが斉太郎節。言わずとしれた宮城の民謡である。その宮城県出身の歌手・小島文子さんが女将を務めるのが亀戸駅裏の民謡酒場<斉太郎>。開業が昭和55年というから、ちょうど30周年を越したところだ。