閉ざされたドアから漏れ聞こえるカラオケの音、暗がりにしゃがんで携帯電話してるホステス、おこぼれを漁るネコ・・。東京がひとつの宇宙だとすれば、スナック街はひとつの銀河系だ。酒がこぼれ、歌が流れ、今夜もたくさんの人生がはじけるだろう場所。
東京23区に、23のスナック街を見つけて飲み歩く旅。毎週チドリ足でお送りします。よろしくお付き合いを!
第10夜:大田区・西蒲田
大田区最大の商業地域でありながら、いまだに町工場と、手芸用品のユザワヤぐらいしか思いつかないひとが少なくない、地味な印象が抜けきらない街・蒲田。近年の再開発でずいぶん様変わりしたとはいえ、昔ながらのスナック街もいくつか残っている。きょうはそのなかから、駅西口近くにそびえ立つ工学院(日本工学院専門学校・蒲田キャンパス)の陰にひっそり花咲く、西蒲田のスナック街を探訪してみる。
井伏鱒二、坂口安吾、松本清張、つかこうへいに最近では絲山秋子まで、さまざまな文学作品の舞台にも選ばれてきた蒲田だが、もともとはのどかな田園地帯だった。それが1920(大正9)年に松竹キネマ蒲田撮影所が開設されるのと合わせて商店街も発展、1922(大正11年)に目蒲線や池上線が開通したころから、急速に都市化が進んでいった。『蒲田町史』によると、「蛙の鳴いていた蒲田たんぼ」が「近代感覚の先端に踊る映画の都」となり、「震災を契機として急テンポに躍進した新興蒲田は、単調な蛙の音楽から、複雑なジャズのリズムへ、ものうげなランプの明かりから、輝くネオンの閃きへと転向して、コケティッシュな都会」に変貌したとある(大田区教育委員会発行資料から引用)。
1953(昭和28)年、いまだ戦後の闇市の面影が残る蒲田駅西口の夜景。
この翌年、蒲田駅西口の商店街は、東京都商店街コンクールで東京都経済局長賞を受賞。
『大田区民新聞』に「大田区内で、一番人出の多い繁華な商店街」と紹介された
写真提供/大田区経営管理部広報課
1967(昭和42)年、蒲田駅西口の様子。
東口の駅ビルは完成しているが、西口では駅前広場の整備と
東急線ホームの高架化工事が進行中。
戦災によって蒲田は焼け野原になったが、終戦直後から駅西口・東口とも「青空市場」「復興マーケット」などと呼ばれた闇市が形成され、それが区画整理を経て商店街に発展していく。昭和20年代の終わりには、すでに大田区内でもいちばんの人出を誇るようになっていたが、東口に較べて区画整理の遅れた西口エリアは、「戦後の『ヤミ屋横丁』の面影を残した蒲田西口は、欲望の熱気がうずまく、きわめて妖しい雰囲気を残す街であった」(『大田区史・下巻』)と描かれるよな、アンダーワールドの顔も併せ持っていた。
1956(昭和31)年ごろには駅西口の盛り場を徘徊する愚連隊が問題になっていたようで、「彼らの所行は、グループ同士の喧嘩や抗争をはじめ、通行人へのいやがらせや、ゆすり、たかりの犯罪行為におよんだ。・・映画館には、顔パスで入場し、暗がりで観客を脅す。喫茶店で対応が悪いと文句をつけ、店内で暴れて店を破壊する・・しかし、被害者の多くは彼らの報復を恐れたり、わずらわしさから被害を届け出ようとせず、蒲田署の係官も取り締まりに苦慮した。・・こうした愚連隊のなかから、やがて組織暴力団に成長してゆくものもみられた」(『大田区史・下巻』)。
蒲田駅東口の駅ビルが1962(昭和37)年に完成し、駅周辺の再開発が進むとともに、地域住民の暴力追放運動の成果もあって、こうした愚連隊は姿を消していったようだが、「コケティッシュ」とはほど遠い危なげで、妖しげな雰囲気は「どことなく猥雑で小汚くて」「そうそう『粋』がない下町なの」(『イッツ・オンリー・トーク』)と絲山秋子が書いた現在にいたるまで、立派に受け継がれている。
西蒲田で居酒屋『春奴』を経営して34年という、蒲田料飲協同組合第五支部長の安藤富次さんによれば、1970年代前半には蒲田駅の東西にキャバレーが大箱、小箱あわせて14軒もあったという(現在残っているのは西口のグランドキャバレー・レディタウンのみ)。
「それがどの店もホステスを多数在籍させて、連日超満員でしたよ」という盛り上がりを支えていたのは、地元の中小企業の社長さんたちだった。キャバレーが栄えれば、ホステスとのアフターや接待で深夜営業が可能なスナックに流れるし、ホステスから独立してスナックや小料理屋を開く女性も少なくなかった。
安藤支部長によれば、そんな蒲田のナイト・シーンに不景気風が吹きはじめたのは、1980(昭和55)年ごろからだそう。1978(昭和53)年の成田空港開港にともなって、羽田空港で働いていた人たちが移動していったり、長引く不況による中小企業の業績悪化で、社長さんたちが以前のようにポケットマネーで遊べなくなっていったのだ。「それでもこの4、5年くらい前までは、都内の『飲み屋の店舗数』では、蒲田は常にベスト3に入ってたんですけどねえ」と安藤さん。「新宿と蒲田と池袋、順位は年度で変わったけれど、この3つは変らなかったんですから」。それがいまでは「遅くまで飲む人はもういませんね。みんな足早に帰るし、酔っぱらうまで飲む余裕がないというか・・それが不景気ということなんでしょうね」と寂しそうだった。
2011年現在の蒲田駅西口。グランデュオ蒲田の
新装オープンで、駅前のイメージはずいぶん変わった
2007(平成19)年8月、東西にあった旧駅ビルの『パリオ』と『サンカマタ』が閉店、翌年4月に『グランデュオ蒲田』という、マンションみたいな名前の駅ビルが出現する。2010(平成22)年には工学院キャンパスに地上20階建ての新タワー校舎が完成し、おかげで昭和の面影を色濃く残していた飲み屋街だった「蒲田西口五番街」が完全消滅。「『粋』がない下町」だった蒲田も、知らないうちに無菌化が進んでいる。アンダーワールドがただの繁華街に成り下がってしまう前に、急いで飲みに行っておこう。
来週は北千住を飲み歩きます。
西蒲田飲み歩きの1軒目は『すなっく さっちゃん』。工学院のタワー校舎に見おろされるように、小ぶりな飲食店がかたまる一角、大城通り商店街に続く道路沿いのビルの2階にある店だ。
ビルの2階にある『さっちゃん』。「(店名に)横文字だけは使いたくなかったし、ほんとは
「スナック」っていうのもつけたくなかったの、型にはまっちゃうみたいで」と幸子ママ
『さっちゃん』の幸子ママが店を開いたのは1991(平成3)年のことだから、もう20年になる。当初は幸子ママの遠い親戚にあたる男性がこの店を始める予定だったが、資金面で都合がつかず断念。そのころ、蒲田で別の店にホステスとして勤めていたママに声がかかったという。その店のママが50歳の若さで亡くなって、「次のこと、どうしようかなって考えたときに、子供も小さいから次の仕事を探すのも難しいし、いいや! イチかバチか」で新しい店のママ業を引き受けたとか。ほんとうはオールディーズが流れるシックなバーをやりたかったそうで、いまも店ではお客さんがカラオケを歌う以外の時間はオールディーズが流れている。
6坪の小さな店で、いつも笑顔いっぱいの幸子ママ。スナックを開こうと決めたとき、
お母さんは猛反対だったが、お父さんが「よそさまに迷惑をかけないのなら、
職業に関してどーのこーの言わない、がんばれ!」と背中を押してくれて、開店にこぎ着けた
つい手が伸びてしまう、おつまみの「駄菓子セット」
ママは筋金入りの松田聖子ファン。「ああして(芸能界で)生き残っている、
その生きかたがすごいな〜って思うのよ」
しかしTOKYO MX『5時に夢中!』の「おママの花道」に出演したときは、
山口百恵の『さよならの向う側』を熱唱したそう
ママの店には、金を持ってこないままツケで飲みにくる客が多いらしい。
「ほかの店では現金で払ってるのに! ウチは(金に困ったときだけ来る)
駆け込みスナックじゃないの!!」と嘆きながら、それでもツケで飲ましてあげる。
「私自身、何年も貧乏してきたから、『お金がない』『払えない』って
言われると、ついほだされちゃって飲ましちゃうの・・」。
さらには、解放的な気分になるのか、脱ぎたがる(開チンしたがる)困った客もいるそう。
「そっちが目当てなら、他に店がいっぱいあるでしょ!って言ったら、
そのままエッチな店に行って、また戻って飲む客もいるんだから」。
そんな困ったお客さん対策か、店内各所に人生標語が飾ってあった
水商売の仕事を始める前は、アパレル関係の販売業に就いていた幸子ママ。高校の商業科を卒業するときに、先生から「お前の進路は事務系しかない」と言われて、反発して販売業をチョイス。さらにはエレベーターガールという異色の経歴もあるそうで、「自分に向かない仕事にあえて進んでしまうのよ・・」と嘆き節。でも、昔の職場の上司にも「お前の100%の笑顔は、だれにも負けないから大事にしろよ、時が経っても忘れるんじゃないよ」と言われたほど、いつも絶やさぬ笑顔がチャーミングな幸子ママでした。
すなっく さっちゃん 大田区西蒲田5-27-19 サンパテオ2F
猫が大好きなママ。お客さんが持ってきてくれる「招き猫」は、
とうとう並べきれずに「半分はしまってあるの」。よく見れば
キープボトルの飾りからお手洗いまで、店内は猫の置物や写真だらけ。
かつては客が「ニャンニャン」と言って入店すれば、
料金サービスのキャンペーンもしていたとか!
遊びに来ていた二女の綾由さんと、愛娘のゆうかちゃんといっしょに
『さっちゃん』から歩いて2,3分。ビジネスホテルがやけに密集する一角に、お洒落なバーのようなたたずまいで目立っているのが『Rio』。実は『さっちゃん』の幸子ママの長女・由佳さんが経営するスナックだ。
まるでスナックらしからぬ外観に、外人客も吸い寄せられる『Rio』。店名は
娘さんの名前からつけられた。ちなみに店の看板がねじれているのは、店の向かいの
マンションが建設中に、出入りしていたトラックに当て逃げされたのだそう
幸子ママが母親に反対されたように、店を出すにあたり最初は
幸子ママから反対されたという由佳ママ。若い男性が入店しやすい雰囲気で、
客層は30代〜40代(なかには20代)と、スナックにしては平均年齢が若い
お洒落なバーではなく「スナック」という業態を選んだのは、
「うちの母親が店をやっていたこともあって・・こういう感じに
行きついたんじゃないかなって思います」
蒲田に生まれ育った由佳ママが、『Rio』を開いたのは8年前のこと。離婚後、生活のために夜の仕事に入り、最初は隣駅の大森のパブで働いていたが、客がつくようになると、収入のことを考え「自分で店をやったほうがいいな」と思ったのが、店を開くきっかけだったという。
パブ時代からのお客さんはもちろん、外国人客もけっこう飲みに来る『Rio』。「羽田空港で働いている外国人のための宿舎がこのへんにある」そうで、また空港に近いことから、この周辺の宿泊費の安いビジネスホテルを利用している観光客も、いいお客さんだとか。「最近ではトルコ人がよく通ってくれてましたけど、過去にはアメリカ人にインド人、イギリス人にアイルランド人、マレーシア人・・店の隣のコインランドリーで洗濯しながら、飲みに来るひともいますよ」。ちなみにイスラム圏内の外国人は酒も飲まず歌わずで、「会話を求めて」お茶を飲みに来る。しかし日本語も英語もできないので、辞書を間に置き、メモを介してコミュニケーションをとっている。「色んな国の人と会えるのは楽しいです。しゃべれれば、もっと楽しいんですけどね・・」。
凝った酒類のラインナップと
蒲田らしく(?)庶民的な付きだしが好対照
バーっぽい雰囲気から、若い男性客が多いのも特徴だが、「最長老のお客さんは89歳、ちゃんとお酒飲むんですよ!」というから、やけに客層のバラエティに富んだスナックであります。
Rio 大田区西蒲田7-24-7 ダイゴビル1F
いつも初々しい由佳ママ(左)と、「初めてのスナック勤めは
楽しいです♥」という看板娘のかすみちゃん(右)
端から端まで50メートルほどの道路の両脇に、いまでは珍しい1階を店舗、2階を住居として作られた長屋建築に、スナックと居酒屋が約30軒(空き店舗含む)ほど入っている、映画のセットのような一角がある。道路から路地を入った奥にある『スナック かな』は、大田区西六郷出身の和子ママが営む、今年5月で25周年という老舗店だ。この場所に移ってきたのは2年前で、それまでは通りに面した、もう少し広い店で23年間がんばってきたそう。
「○○横丁」「○○通り」といった特別の名前はないけれど、
もう50年以上の歴史があるらしい、『スナック かな』のある西蒲田7丁目の一角
「でも、あのへんの店がなくなるとすぐに一角が更地にされて、
ほぼマンションですね。そういうのがけっこう多いです。だから料飲共同組合も
相当に軒数(組合員)が減りました」と安藤支部長は語る
手作り風味の看板が、なんともいい雰囲気。「開店したときは
いちばんの新参者だったけど、もう5番目に古くなったかな」とママ
無造作に貼られた天童よしみのカレンダーとオードリー・ヘップバーンの
ポスターと、店内から聴こえる大正琴の音色に期待が高まる
ママになる前は新橋の、ポストカードや絵画、カレンダーを制作販売する会社に勤めていた和子ママ。「体力があるっていうより、バツイチになって2人の子ども小さかったし、育てるためには会社の給料だけじゃ、マンションの家賃にもなんないし。でも働くことは大好きですから」というわけで、まず「勉強のために」他のスナックでバイトすること7、8年。そのあと自分の店を構えても、しばらくは昼間の仕事と掛け持ちしていたし、現在も昼間は生活介護のヘルパーをしているそう。ほんとにタフな働き者だ。
石原裕次郎が大好き。店名も曲名から『夜霧』に決め印鑑まで用意したものの、
「なんかピンとこなくて・・娘たちに相談したら、上の子が『私の名前を使えば』と
言ってくれて」、名前の一部を店名にした。「当初、お客さんには店の名前や
場所を忘れたら、『どこかな?』『なにかな?』の『かな』で覚えてね、って言いました」
大正琴は8年のキャリアで、木村流「花の会」に所属(先生は
元アイドル歌手だとか!)。老人ホームなどに、
ボランティアで仲間と弾きに行くことも
新宿文化センターでの合同演奏会風景
いまの店に移転する前、23年間続けた店の、花に囲まれた店内。
バブルの終わりに座敷のある居酒屋を借りてスナックにしたので、
改装にトータル1千万円もかかったが、5年で借金完済!
ウイスキーのボトルに描かれた絵は、90歳になった現在も
通う常連さんが、85歳のときに描いてくれた作品
「乾き物は私が嫌いだから、自分が飲みに行って、乾き物を
出されるとガッカリしちゃう」と、手作りにこだわる付きだし
店内を埋めつくす水墨画が圧巻。画廊喫茶のようでもある。水墨画は
すでに15年のキャリアで、希望者には販売中。水墨画も大正琴も、昼の仕事を辞めてから
始めたそうで、「時間が余ると、なんかしていないといられない人だから」とママ
高校野球ファンの常連さんが、大会ごとに買ってきてくれる
ボールとバットのレプリカが、カウンターにいくつも並ぶ
「おつまみ」と言うには充実過ぎるメニュー。大正琴仲間や
ヘルパー仲間が来店するときには、若い女性も多いので、「そばずし」をはじめ、
ママお得意の手作り料理をふんだんに振る舞うそう。
「食べたいときには事前に予約してくださいね!」
店の壁にも、お手洗いにも渋い人生訓や標語がいっぱい。書写して帰りたくなる
ほかの店と同じように、不況で客は減るばかり。特にこの大震災でさらにお客さんは少なくなってしまった。「でも、動いていないと・・余計なこと考えて寂しくなるからね!」と、あくまで元気な和子ママ。お得意の大正琴で、不況も吹き飛ばしちゃってください!
スナック かな 大田区西蒲田7-10-9
『さっちゃん』の幸子ママも『かな』の和子ママも、「蒲田は無銭飲食が多いの!」と
口を揃える。「警察から、『また「かな」ちゃんとこ? 人を見てわかるように
なれよ!』って怒られちゃったわ」と言うだけあって、ドアには料飲組合からの
注意書きが。なのでいまは「フリーのお客さまも歓迎ですけど、
夜遅い場合だと、お断りすることもあるんです」