鏡五郎の「なみだ川」や北原ミレイの「新宿海峡」、そしてなにより「浪花節だよ人生は」(木村友衛ほか)で知られる台作曲作詞家の四方章人先生をコーチに、アマチュアのカラオケ好きとゲストがみっちり歌のレッスンをつけてもらうという、シリアスな歌番組。それに、あろうことか僕も呼ばれてしまいました・・・。レッスンをつけてもらったのは美川憲一の『お金をちょうだい』。もう、単なる羞恥プレイでしたが、担当してくれた方が「どうしても告知してくれ!」と言うので、やむをえずお知らせします。ま、ぜったい起きれないと思うので、気にしないでください。
厳しいレッスン風景
四方先生(左)、山本あきさん(右)と
ちなみに収録当日、レッスン・アシスタントを務めてくれたのが山本あきさん。実は2008年に月刊『カラオケファン』誌で、お宅までお邪魔して取材させてもらった若き人気歌手です。ものすごくフレンドリーな人柄が、そのまま顔に出てますが、東京に出てきていらい、ずっと暮らす大田区の御嶽(おんたけ)商店街ではアイドル的存在。街を歩くと、有線からも彼女の歌が流れてきます。こちらの記事もずいぶん前に出たきりで、単行本にも未収録なので、この機会に読み直していただけたらと思い、ここに再録します。よろしければ、彼女の歌もどうぞ!
東京の下町のはずれの小さな駅で待ち合わせしていたら、商店街の有線放送から演歌が流れてきた。わざわざ改札口まで迎えに来てくれた山本あきさんに聞いてみたら、「あ、これ、あたしの歌なんです!」 えーっ、商店街で自分の歌が流れてるんですか、すごいですねぇ、と感心したら、「もう3年もここに住んでるんで、みなさん顔なじみで、バイトもここでやってたし、お腹すいたらお蕎麦屋さんで食べさせてもらったり、最高ですよー」と、かわいらしく笑ってる。石川県鶴来町(現・白山市)に昭和53(1978)年に生まれ、2004年にプロ歌手目指して上京した彼女が、いまでは東急池上線御嶽山の歌姫だ。
ワンルームのわが家で夢を語るあきさん
本のセレクションにも感心
お父さんはサラリーマンだけど週末は手品師!、お母さんも地元でプライベート盤を出す演歌歌手という恵まれた(?)家庭環境に育ち(ちなみに芸名はお父さんが「マジカル功」、お母さんが「港あかり」)、”あき”という名前もお母さんが大好きな八代亜紀から取った(「あっ、姉の”まり”も天知真理さんからなんです」)、ある意味、歌手になるべくしてなったという感じの山本あきさん。小学生のころからチビッ子歌番組に出場するなど音楽への道を順調に歩み、中学校2年生にしてロックバンドを結成。ドラムスとヴォーカルを担当して、プリンセスプリンセス、リンドバーグあたりの曲とオリジナルをまじえて演奏するようになった。
高校に入るとクラスメイト4人で作ったバンドで、今度はギターとヴォーカル担当。「あたしはそのころから、音楽で生きていく!って気持ちだったんですけど」、ほかのメンバーが「卒業したらやっぱり就職」みたいなことになって、高校卒業と同時にバンド解散。それからはひとりでアコースティック・ギターを抱えて、金沢のライブハウスで歌うようになった。
「正直言って、演歌なんてダサい」と思っていたロック少女が目覚めたのは、金沢市役所が音頭を取った町おこしイベントで、一日だけ”流し”をやってみないかと誘われたのがきっかけ。流しならロックじゃなくて演歌だろうと、ライブハウスの人が演歌のスタンダードを選曲したテープを作ってくれて、美空ひばりの『悲しき口笛』や美川憲一の『柳ヶ瀬ブルース』などといっしょに入っていた藤圭子の『夢は夜ひらく』を聴いたら「涙が止まらなくなっちゃったんです」。すでに自分も20歳になっていて、子供のころは20歳になったら自分の夢は叶ってるもんだと信じ込んでたのが、ぜんぜん叶ってない。そんな自分と「15,16,17と あたしの人生暗かった」という歌詞が重なっちゃったんですね・・と当時を振り返ってくれたが、ライブハウスの人の選曲もよかったんですねえ。
イベントは一晩だけだったけれど、予想もしていなかった反応の強さに演った本人が驚き、「おもしろくなっちゃって、それから3ヶ月ぐらい流しを続けました」。
それまで毎月出演していたライブハウスでは、別にお客さんが聴いてくれなくても、自分が歌いたい歌をそこで歌っていられればいいと思っていたのが、焼鳥屋のカウンターで目を瞑りながら聴き入ってくれるおじちゃんとか、スナックの片隅で自分の歌に涙を流してくれて、「ねえちゃんなら絶対、歌手になれるから! 応援するから、ときどき来てや」って言ってくれた人とか、「そんなふうに喜んでくれる人たちを見た瞬間、あたしはこういう世界で生きていこうって決めたんです!」
地元のテレビや新聞で記事になった”流しの少女”のことを見て、お母さんの歌友達が作曲家の聖川湧先生を紹介してくれ、月にいちど金沢に教えに来ていた先生にレッスンをつけてもらうようになった。
石川県のお隣の富山県に生まれて、小学生の時に両親が離婚、さらには父親の失踪で天涯孤独の身となって、18歳で金沢のヘルスセンターの専属バンドから音楽活動をスタート。苦労の果てに香西かおりの『雨酒場』や成世昌平の『はぐれコキリコ』で作曲家として大成功した聖川湧という格好の師を得て、ひたすら発声練習に励みつつ、「焼き肉屋さん、お弁当屋さん、喫茶店…食費を浮かせようと思って食べ物屋さんばっかり選んで」バイトしながら、3年かかって上京資金を貯めた。それで先生が来てくれたカラオケ大会のとき、打ち上げの後に、「やってだめなら仕方ないけど、やらずにダメというのでは悔しいから、最後のチャンスだと思って東京に行きたいんです。発声練習でもいいので、先生の近くに居させてください。お金も貯めましたし、近くに来月からアパートも借りちゃいました。お願いします!ってお願いしたら、先生、ぽかーんってされちゃったんですけど、いつかはそう言われるかって予期もしていたみたいで」。
「実はそのとき、まだお金も足りなかったし、アパートも借りてなかったんですけど」(笑)、急いで先生のお宅のそばに部屋を探して、「行ってらっしゃい!」と送り出してくれた家族のもとから東京にやってきたのが2004年のこと。それからは「もう、朝5時からお昼の12時半まで商店街のコンビニでがっつりバイトして、2時から先生のところで夜までレッスン、長いときはお酒のお付き合いで夜中2時頃まで帰れなかったりして、先生のお話聞いてるつもりが、目が開けてられなくて・・なんてこともありました」というハードなトレーニングの日々が始まった。
上京して半年たった2005年4月26日に、キングレコードのオーディションに合格。ところがなかなかデビュー曲が決まらず、『哀しみ模様』でデビューできたのが2006年6月21日。キングレコード創立75周年記念新人として全社的なバックアップ体制のもと、同年末には“第48回輝く!日本レコード大賞”で新人賞を受賞することになるのだが、オーディション合格からデビューまで1年2ヶ月も待たなくてはならなかったのは、「もしかしたら白紙に戻っちゃうんじゃないかって、悩みに悩んで。小さな部屋で、友達も身内もだれもいないし、ちょっと精神状態おかしくなりました」。
プライベート盤を出している演歌歌手だけで200人以上いるという、石川県はかなり音楽が盛んな土地。そういうところから、みんなに応援されて送り出されて、「もう戻れない!」みたいな気持ちでがんばってきたから、デビュー後に全国をキャンペーンで回って石川県に行けたときには、ほんとうにうれしかったそう。
1年後の2007年5月には2枚目のシングル『幸せの行方』が発売されて、現在はそのキャンペーンで大忙しの毎日。もう早朝バイトはないけれど、「休みの日があると、この町から出たくなくて。銀行もジャスコも、薬屋さんも病院も歯医者さんもあるし、ちょっと遠くも自転車があるから、東京じゃなくて鶴来町みたい!」と笑う、地元密着マインドは変わらない。そんなふうに自然に毎日を送れて、いま大好きな演歌と、昔大好きだったプリプリみたいなロックと、いつかコンサートでも自然にあわせて歌えるようになれたら、いいですねえ。