2011年7月7日木曜日

東京スナック飲みある記


閉ざされたドアから漏れ聞こえるカラオケの音、暗がりにしゃがんで携帯電話してるホステス、おこぼれを漁るネコ・・。東京がひとつの宇宙だとすれば、スナック街はひとつの銀河系だ。酒がこぼれ、歌が流れ、今夜もたくさんの人生がはじけるだろう場所。

東京23区に、23のスナック街を見つけて飲み歩く旅。毎週チドリ足でお送りします。よろしくお付き合いを!

第20夜:文京区・湯島飲食街

上野駅から松坂屋のある広小路交差点を通って秋葉原方面に向かう中央通りと、不忍池と湯島天神(正式名称は湯島天満宮)に囲まれたエリアが湯島の飲食街。知ってるひとは大好きだし、知らないひとにはちょっと敷居の高いイメージのある、都心部ではいちばん穴場的な飲食街かもしれない。

東側からはアメ横をはじめとする、上野の混沌としたショッピング・パワーが迫り、西側には湯島天神に代表される史跡、戦災を逃れた老舗商店や建築物が残る歴史的地域が控え、高級マンション群もあれば、20軒近くを数える一大ラブホテル街まである。

おまけに湯島の飲食街はその大半が文京区だが、不忍池側と中央通り側の一角は台東区であり、すぐ南側は千代田区外神田でもある。区ごと、管轄警察署ごとの規制の差もまた、湯島飲食街の多面性に寄与しているのかもしれない。

もともと湯島は明治時代から、都内有数の規模を誇る花街として知られてきた。不忍池側の池之端寄りに「下谷花柳界」、湯島寄りに「天神下花柳界」があり、そのふたつが春日通りを挟んで隣接し、大正から昭和初期にかけての最盛期には1000人近くの芸者衆を抱える、巨大な花街に育っていたという。

1966(昭和41)年、御徒町駅のホームから湯島方向を撮影した春日通り。
都電は当時大塚駅と錦糸町駅を結んでいた都電16番。遠方に霞んで
見える森が旧岩崎邸庭園だが、現在は高層マンションの
湯島ハイタウンが庭園の前にそびえている
写真提供/『湯島かいわい』編集室

「黒塀の路地があったり、新内が路地を流していたり、昼間は小唄・端唄(はうた)のお師匠さんの稽古場から三味線の音色が流れていたり、湯島は下町でありながら、山の手の雰囲気も併せ持つ落ち着いた街だったんです」と、往時の花街独特の雰囲気を教えていただいたのは、白梅商店会会長の中村充さん。湯島飲食街の大半を占めるエリアの店舗で結成された白梅商店会は、加盟200店舗のうち6割が飲食店という、都内でも例を見ない「飲食店集団」であり、会長の中村さんは1946(昭和21)年に、先代の中村三郎氏が店を開いた干物や海産物を扱う老舗「丸赤商店」の2代目である。

丸赤商店の干物は料亭で遊ぶ旦那衆の土産として重宝されたそうで、その関係からか「昼間はうちの店が忙しいものですから、子供のころは置屋の芸者衆のところに遊びに行かされて、ずいぶん可愛がってもらいましたね」と、昔話を披露していただいたが、その中村さんによれば春日通りの1本南側の細い道は「お化け横丁」と呼ばれていたそうで、それは「芸者置屋が何軒もありましたから、そこの芸者衆も昼間はスッピンで、普通の女性と同じ格好をしていますが、夕方になるとお化粧をして様変わりしますから」、そんな名前がつけられたそうだ。

いまでもこのへんの細い道を歩いていると、花街時代の名残を感じさせる、粋なしつらえの店や木造住宅が見つかるのだが、湯島の花柳界は昭和30年代から徐々に下火になっていった。そのかわりに増えたのがクラブやバー、キャバレーで、「(花柳界の)経営者の方も年配になって、一軒、一軒と店を閉めるところが増えていって、いまはもう一軒もそういう店がなくなりました。ただ、そういう店は大きな敷地を持っていましたから、その土地にいまのような飲食ビルを建てていったんですね」と中村さん。丸赤商店の並びにも『ボーナス』というキャバレーがあって、100人以上もホステスがいたそうだが、花柳界が下火になるとともに、芸者衆やキャバレーのホステスから独立した女性たちが、飲食ビルにスナックや小料理屋を開くようになって、それが現在のような湯島の飲食街を形成していったわけだ。

1977(昭和52)年5月29日、湯島天神祭「菅公千七拾五年祭」で
梅鉢紋(うめはちもん)の入った軒提灯が並ぶ湯島天神下の家並の様子
写真提供/『湯島かいわい』編集室

ほかの花街も同じような変遷を辿っていくなかで、湯島がたとえば歌舞伎町のようにも、新橋や赤坂のようにもならなかった原因を、湯島エリアで長く商業ビルの企画・経営代行・管理を手掛けつつ、タウン誌『湯島かいわい』(先代社長の故・小能義雄氏が1976(昭和51)年に創刊)の発行人でもある日生不動産・日生コミュニティ代表取締役の小能(このう)大介さんは、こう語る——「湯島は他の歓楽街のような100坪、200坪という大店がないのですが、それが”強み”なんです。ここは広い店じゃなくて、7坪ぐらいの広さのスナックが主流なんですね。それだとママさんと従業員が1人か2人でやっていけますし、それがアットホームな雰囲気を出すことにもなる。もちろん今は不景気でたいへんですが、そういった規模の店ですから、大きくは儲かりはしませんが、痛手もそんなに大きくない。だからバブルのときも、大きく儲かったひとはいませんでしたが(笑)、弾けたあとの影響もなかったんです」。

1976(昭和51)年9月の『湯島かいわい』創刊号(当時は
『ゆしまかいわい』)に掲載された、湯島の夜を染める
スナックビルの看板をコラージュしたグラビア写真
写真提供/『湯島かいわい』編集室

湯島はビルのオーナーが自分の土地に建物を建てているため(だからひとつひとつのビルは小さいのだが)、上野に近い好立地ながらバブル期に地上げに遭うこともなかったらしい。地上げや再開発によって、地区が焼け野原にならなかったことで、親子三代が湯島に暮らすというような生活形態が残ることになり、それが現在のようにソシアルビルが密集する環境でありながら、歌舞伎町や六本木といった盛り場とは違う、昔ながらの感覚を残す街として生き残ってこれることになったのでしょうと、小能さんは分析する。

そのような昔ながらの風情を残すいっぽうで、湯島はいまや東京有数の風俗激戦区でもあり、韓国、中国、フィリピン、タイと、アジア系のパブやクラブが激増している”リトル歌舞伎町”でもある。夜の湯島を歩いてみればすぐにわかるが、特に春日通りの北側、それも文京区と台東区の境界線に沿うように、もしかしたら歌舞伎町風林会館あたり以上の数の客引きが立っている。「オニイサ〜ン」と甘い声を掛けてくる女の子たちと、スーツ姿の客引きたちで深夜の湯島は大賑わいだし、アフター用の深夜寿司店はフィリピーナやタイ娘を連れたオジサンたちで毎晩盛況だ。

春日通りから南側の飲食街の、2011年現在の様子。飲食ビルが
並ぶなかにも、どことなくしっとりした雰囲気が漂う

白梅商店会と地元有志が警視庁と合同で、月に2、3回は夜間パトロールを行っていて、それがもう通算240回になるというが、遊びに来るだけの無責任な立場から言わせていただくと、歴史を感じさせる情緒たっぷりの飲食店と、アジアン・パワーが炸裂する風俗街が、湯島のようにうまく(?)ミックスしている飲食街は、東京はもちろん、日本の中でもなかなか見つからない。

風情はあるけれど、京都のようにお高くとまってはいない。風俗はなんでもありだけど、歌舞伎町ほど怖くはない。そういう、なんともほどよい弛緩と緊張が溶けあう湯島は、個人的にも東京でいちばん好きな飲み場所、遊び場所のひとつだったりする。今夜は湯島の昔といまをグラス片手に教えてもらえる、老舗スナックをハシゴしてみよう。

来週は新宿区・西新宿あたりを飲み歩きます。



今宵の一軒目は「お化け横丁」の角にある、飲食ビル2階に店を構える『スナック 圭』。さっぱりした見かけのドアを開けてみれば、そこはコンパクトながらも華やいだ雰囲気の空間だった。


『スナック 圭』の入るイイムラビルは地下1階、
地上2階建ての小さなビルだが、それでも12軒も店が
入っている。ほとんどはカウンターだけの小さな店だとか

手前にカウンター、奥にボックス席のある店内

『圭』のある湯島3丁目で生まれ育った圭子ママ。学校を卒業して、いちどはお勤めしてみたものの、「朝がまったく起きられなくて」という典型的な夜型のため、スナック業に転身。叔父さんにあたる前述の日生不動産先代社長に「なにかやりたいんだけど・・」と相談に行ったところ、「じゃあ店でもやれば」と言われ、開店を決めたのだという。


3ヶ月ほど別のお店で勉強したあと、20年ちょっと前に現在の店の近くでカウンターだけの小さな店を開店。それからいまの場所に移って、もう14〜15年というから、入れ替わりの激しいこのあたりではかなりの老舗になる。



店内には女性をかたどったさまざまなデザインが。「これ、
お相撲さんのまわしじゃないですからね(笑)。
女のひとのからだが背中合わせになってるの」

こちらは女性のからだを横から見たところ

ママの弟さんが内装を手がけたという店内は、暖色と曲線を多用した優しい印象。「女性のからだの曲線をかたどったんですよ」という意匠が、そこかしこに用いられている。


店内にはママが買い求めた、さまざまなディスプレーが。
「これは築地の場外で、私のこと見てたから買っちゃったの」

お洒落な雰囲気のカウンターまわり

「ネッシーは、本場のネス湖で買ったものなんですよ」

カウンターには金魚が水鉢に浮かぶ。「風水的に、
水商売には金魚が良いって聞いたから」

最初に店を始めたころは、バブル時代の最中。「もう、朝の4時まではあたり前でした。そのころは焼酎なんて1本も置いてなくて、ヘネシーが当たり前のブランデーの時代でしたねぇ」と懐かしむが、いまもママと女の子ふたり、美女3人体制で夜ごと常連さんをお出迎え。お客さんの平均年齢が40〜50代と、スナックにしては若めなのも、そんなお店の雰囲気だからこそにちがいない。

お手洗いの壁には、お客さんとのスナップが
たくさん。ほんとに楽しそうです!


お手洗いのドアは、穴に棒を差し入れる・・珍しいシステム

お客さんごとに干支のボトルを用意。なく
なったら、こうやって継ぎ足すのでした

女の子は計5人が日替わりで出勤、常時ママと女の子の
3人体制だ。本日のラインナップは圭子ママ(左)、
あゆみさん(奥)、あいさん(右)

スナック 圭 文京区湯島3-38-5 イイムラビル2F


湯島の飲食街を東西に二分する春日通りに面した飲食ビルの8階に店を構える『スナック 富子』。1階のビル前にはお客さんを送迎する、肌もあらわな中国美女たちが入れかわり立ちかわりで、そんななかをエレベーターに乗り込むのは、ちょっとハードル高いかも。


ちなみに『富子』が入るコア湯島ビルには28軒の店があって、それも中国や韓国系の店がほとんど。日本人の店は5〜6軒しかないと言うから、まさに現在の湯島を象徴しているようでもあるが・・しかし! いちど『富子』に入店してしまえば、そこは富子ママと娘さんの恵さんやホステスさんが、みんなエプロン姿で迎えてくれる、なんとも家庭的な雰囲気なのだ。


春日通りに面した大きなビルの8階。
知っていないと入るの難しそう

外からはわからないが、店内はかなり広くゆったり
したつくり。生花が華やかな雰囲気を演出する

カウンターで見つけた「パイロゲン」は、
お酢をブレンドしたママの健康飲料水だとか


群馬出身の富子ママは、「小さいときから、なにかやりたいな〜っていつも思ってて」、18歳で墨田区の叔父さんを頼って上京。理化学関係の製品を扱う外交員として働いたあと、浅草にお引っ越し。バトミントンのサークルで知り合ったスナックのママに頼まれて、店が忙しいときに手伝うようになった。「それから上野のカウンターだけのスナックでも働きましたし、別の店では雇われママもやりましたけどノルマがきつくて、それだったら自分で店を持とうと思ったんです」と、開店を決意する。最初は慣れ親しんだ浅草で店を持とうと思ったが、「娘から、これからは浅草から向こう(西側)よって言われて、湯島にしたんですよ」。

広告代理店に勤めていた娘の恵さん関係の、
若いお客さんもだんだん増えている

カウンター上には母娘の提灯

開店が1993(平成5)年だから、今年で18年。当初はまだバブルの余波が続いていた時代だったが、「バブルのころは2回転、3回転が当たり前の時代でした。でも、まわりがどんなに浮かれていても、私のところは堅実な商売をこころがけていたんです」と、当時から現在まで6000円で飲める店というスタイルを堅持。おかげでバブルが弾け、不況が長期化しても、「うちの店はここから下げようがないから、安全パイです!」と笑う。

富子ママを描いた肖像画もあった

お手洗いには、お客さんによる渋いキャッチコピーが


「このビルって、美人でキレイなドレス姿のひとが多いでしょう。だからうちは、エプロン・スナックなんです」とママが言うとおり、『富子』のご自慢のひとつは「家庭料理」。「スナックって乾き物が普通なんでしょうけど、私は手作りにこだわりたいんです」という言葉どおり、毎晩いろんな煮物の鍋が、奥のキッチンでコトコトいい音を立てている。

「エプロン・スナック」と自称するとおり、家庭料理が味わえる店。
カウンターでは富子ママが、お客さんの相手をしながらも手を止めない

枝豆はちゃんと枝からむしったのを茹でる

今夜は肉じゃがをたっぷり作りました


5〜6年前からは、それまで広告代理店に勤務していた娘の恵さんも店に出るようになって、いまでは「母娘2代の店」として知られる『富子』。しかも富子ママのお宅は孫が4人、そして99歳になるお母さんもいる大家族。家の用事を終わらせてから店に入るので、毎日朝から大忙し。「それでも、お店に出ることが元気の源なんです」とママ。でも、そういう大家族の温かみがお店にもちゃんと漂っていて、それがまた絶妙の居心地よさを生んでくれるんでしょうねえ。


富子ママ(左)と2代目・恵さん。「私の顔でお客さんが
来る時代は終わったのよって、いつも言っているんですよ」と、
ママは次世代へのバトンタッチを計画中


スナック 富子 文京区湯島3-35-8 コア湯島ビル8F


湯島の繁華街から、地下を千代田線が走る不忍通りを湯島天神側に渡ると、そこはぐっと静かな街並みになるのだが、その不忍通りに面したビルの地下にあるのが『スナック もしも…』。道路から階段を降りていくと、にぎやかなカラオケの歌声がまず階段途中でお出迎え。そしていざドアを開けてみると、純白のエプロン(!)をまとった妙齢の熟女たちが、「いらっしゃ〜〜い!」と声を揃えて迎えてくれる。どんな店なんですか、ここ!

不忍通りを挟んだ静かな一角にある『スナック もしも』。
ちなみに1階の中華料理店『味の北海』は、ママの息子さんが経営。
お客さんが希望すれば、餃子をはじめ一品料理の注文ができるそう

ユニークな店名の由来は「ふつう店名は(自分の)名前に
するんだけど、でも私の名前って仁子だから、看板に出すには
女性らしくないでしょ。だから、電話の『もしもし』で
思い出してもらえるのと、あと『…』を付けた
のは、なにか気になってくれるかなって」

着物に白いエプロン姿が、ものすごくよく似合う仁子ママは
常連さんと、東海林太郎の『すみだ川』を熱唱

お通し担当の由紀子さんは石原裕次郎の『地獄花』をデュエット

エプロンの後ろ姿って、いいです

『もしも…』の仁子ママは東京生まれだが、お嫁入りして湯島に移ってきた。「この店は半年くらい空いていて、子供たちに店をやってもいいかなって聞いて、お許しをもらって」始めたのが1981(昭和56)年というから、もう30年の大ベテランだ。


開店当初は外国人のホステスを雇って、いまよりゴージャスな雰囲気の店だったが、バブルが弾けたあと「15年前くらいに女の子も入れ替えて、値段設定も5000円飲み放題とリーズナブルに変えました」。『もしも…』のトレードマークであるエプロン姿も、そのときにスタートしたそうで、「秋葉原のメイド喫茶より、うちのほうが早いんだから。あっちが真似してるんですよ(笑)!」。




乾きものではない、手料理がどんどん出てくる


「店に来るお客さんは、みんな仲間になっちゃうんです」というのも、仁子ママをはじめとするスタッフの優しさと気遣いなのだろうが、『もしも…』ではボーリング大会に日本酒の会と、常連さんとのイベントを積極的に開催。5月の夏祭りのころには、お客さんに法被を貸し出して飲んでもらうイベントも行ったとか。それほど常連さんの結束が堅い店でありながら、「うちはフリーのお客さんも大事にしたいんです、気に入ってくれたらまた来てくれて、そこからまた新しいお客さんの輪も広がるでしょ」という仁子ママの店は、一見さんも大歓迎。こういう店を知っておくとぜったい便利なので、湯島飲み歩きのシメにはぜひどうぞ!

常連さんたちといっしょに。真ん中が仁子ママ、
向かって左が雅子さん、右が由紀子さん

一見さんも大歓迎、お待ちしてま〜〜す!

スナック もしも… 文京区湯島3-33-9 小能ビルB1