2011年6月9日木曜日

東京スナック飲みある記


閉ざされたドアから漏れ聞こえるカラオケの音、暗がりにしゃがんで携帯電話してるホステス、おこぼれを漁るネコ・・。東京がひとつの宇宙だとすれば、スナック街はひとつの銀河系だ。酒がこぼれ、歌が流れ、今夜もたくさんの人生がはじけるだろう場所。

東京23区に、23のスナック街を見つけて飲み歩く旅。毎週チドリ足でお送りします。よろしくお付き合いを!


第17夜:江戸川区・小岩駅南口飲食街



都心からJR総武線に乗って千葉方面に。隅田川を越え、荒川・中川を越え、さらに新中川を越えると、そこが小岩駅。その先はもう、江戸川を渡って千葉県だ。江戸川区小岩・・・東京のイーストエンドである。


駅を降りれば南側に商店街、北側には飲食街を中心とする、雑然とした街並みが広がり、いかにも郊外ターミナルの風情。ロータリーからひっきりなしに出ていくバスが、乗客たちを郊外住宅地に運んでいく。シャッターを下ろしたままの古い店舗、スーパーマーケット、コンビニ、チェーン居酒屋、韓国パブにマッサージ、風俗店・・なんともゆるい空気が、駅から直径1キロほどのエリアにどんより覆いかぶさっているようだ。

1955(昭和30)年ごろ、高架になる前の小岩駅。小岩駅は
1899(明治32)年5月に総武鉄道(当時)の駅として開業。
当初は南口だけだったが、1946(昭和21)年に北口の開設以降、
何度か改築工事が施された後、1972(昭和47)年、総武線の
複々線化によって木造駅舎は姿を消した
写真提供/江戸川区郷土資料室

2011年現在の小岩駅南口。ロータリーの大木が一服の涼を添える

「小岩には大きな会社がないんです。いちばん大きな建物が警察と学校、それに区役所ぐらい。飲食店と一般商店、住宅だけで約10万の人口になったという、珍しい街だと言われてるんです」と教えてくれたのは、南口駅前に伸びる小岩駅前通り美観商店街(小岩フラワーロード商店街) 会長の吉田義昭さん。お父さんの代から商店街で鮮魚販売や仕出しの店『魚清』を営む吉田会長は、小岩飲食街の栄枯盛衰とともに生きてきた。

いま小岩を歩くひとには想像できないかもしれないが、かつてこの街は夜ともなれば、錦糸町を超えるクラブの店舗数を誇った、城東地区最大の歓楽街だったという。「昔の小岩にはね、ホステスの給料が銀座と同じぐらいの高級クラブが、ずいぶんとあったんですよ」と吉田さんは、懐かしそうに思い出話を披露してくれた。「35年から40年前ぐらいの話になりますが、ホステスはみんな着物姿でね、サラリーマンの月給が1万円だった時代に、5千円のセット料金でした。しかもオードブルは乾き物じゃなくて、クラブなのにお刺身を出してたんだから!」。

1946(昭和21)年10月、道路整備のために駅前の露店が立ち退いて、
その受け皿として出現した「小岩ベニスマーケット」。しかし
衛生面と防火面が問題視され、1951(昭和26)年に都が除去勧告。
マーケット住民との交渉は長引いたが、1962(昭和37)年には
全戸の移転が完了した。写真は昭和通りと中央通りの交差点付近から
撮影された1950(昭和25)年ごろの小岩ベニスマーケット
写真提供/江戸川区郷土資料室

同じ場所を、いま見てみるとこのとおり、ドブ川に板を渡して
建てたバラック・・なんて面影はどこにもない

銀座と同格の高級クラブがひしめき、駅北口側には「ハリウッド」チェーンをはじめとするキャバレーが軒を連ね、小岩の夜はたいへんな賑わいだったらしい。総武線が複々線化され、東京駅を起点とする総武快速線が新小岩から、小岩を飛ばして市川に行ってしまったり、都営新宿線が本八幡と新宿を結ぶようになるまでは、船橋、浦安、本八幡の富裕層にとって、小岩がいわば「東の銀座」だったわけだ。

夜の小岩のメインストリートは、昔もいまも駅の東側をほぼ南北につらぬく小岩中央通りである。そもそも終戦直後、小岩駅前で露天商(闇市マーケット)を営んできた罹災者や引揚者らが、1946(昭和21)年10月に道路整備のために立ち退きを余儀なくされ、現在の小岩中央通りに数十軒もの飲食店や乾物店などが軒を連ねた通称「ベニスマーケット」を作ったのが、その始まり。もともとここにはドブ川(用水路)が流れていて、その上に板を張り、簡素な建物を建てて店舗としたことから、そんな名前がつけられたのだという。

ベニスマーケットは都の除去勧告もあり、5年の歳月を経て1962(昭和37)年に移転が完了、いまの中央通りをいくら眺めても、その痕跡すら見つけられないが、考えてみれば東京オリンピックが開かれるたった2年前まで、そんな奇妙でパワフルな場所が、東京のはずれにあったというのも、想像してみるとなんだかうれしくなる。

アーケード街になる前の小岩駅前通り(現在のフラワーロード)の様子。
小岩駅前通り美観商店街(小岩フラワーロード商店街)は1947(昭和22)年に
結成、1952(昭和27)年〜1953(昭和28)年には、1733メールにも及ぶ
江戸川区では最初のアーケードを完成させた。写真左に見えるパン屋の
「丸十ベーカリー」は現在、貸催事場となっている
写真提供/江戸川区郷土資料室

ちょうど同じ場所の、現在のフラワーロードを見る。
シャッターを下ろしたままの店や空き店舗もちらほら

小岩駅南口前からまっすぐに伸びるフラワーロード商店街の入口

小岩はまた、東京屈指の赤線地帯としても長く知られてきた。駅南口からフラワーロードを南にずっと下った先、二枚橋と呼ばれる場所に、終戦後すぐ作られたのが名高い『東京パレス』。進駐軍のための”性の防波堤”、つまりは巨大な慰安施設(RAA)である。進駐軍の立ち入り禁止後に赤線となった東京パレスは、坂口安吾などもルポを残しているが、「あそこにはダンスホールもあって、戦後の貧しい時代に、信じられないぐらいの別世界。なのでパレス周辺にも寿司屋に洋食屋、喫茶店と、30〜40軒ぐらいは店があったでしょうか」と言う吉田会長も、「親父に言われて中学生のころから、赤線に配達に行ってた」そうだ。

1958(昭和33)年3月の赤線廃止まで、ベニスマーケットと東京パレス一帯という、二大飲食街を擁していた小岩。いまも、事情通によれば風俗はかなりの”穴場”らしいが、過ぎし日の栄光(?)に思いを馳せながら、昔話を聞けそうな店を探して歩くのも楽しい。今夜は南口駅前からフラワーロード周辺の老舗スナックをご紹介しよう。

来週は墨田区押上を飲み歩きます。

商店街のすぐ裏には、閉店したままの立派な銭湯も
あったりして、ちょっと寂しげだ

小岩の夜を飲み歩く1軒目は、駅南口を降りてすぐ左側に、線路に沿って伸びる「地蔵通り」の『スナック ブラック』。一枝ママは浅草生まれの深川育ち、戦中に建物疎開(空襲による火災の延焼を防ぐための強制立ち退き)で小岩に引っ越してきた、生粋の下町っ子だ。地蔵通りに店を構えたのが1956(昭和31)年9月のことというから、はや56年。自他ともに認める老舗中の老舗スナックであります。

線路に沿って店舗が並ぶ、駅前の地蔵通り。昼間はこんなぐあいに、
閑散とした雰囲気。この裏手に、同じく「地蔵通り」と書かれた飲食街が
あり、いまではそちらを地蔵通りと思ってるひとが多いが、もともとは
こちらが本通り、もう一本が私道なのだそう。「線路が高架になる前は、
こっちがメインの通りだったんですよ」と、ママが教えてくれた

夜のとばりが降りると、地蔵通りには別の空気が流れ出す。
いまでは居酒屋に風俗店も多いが、「わたしが店を出したころは、
パチンコ屋がずらっと並んでて、”パチンコ横丁”って呼ばれてました」と
ママ。「パチンコの組合の会長さんも小岩にいらして、
全国的にも有名なところでした」という

世の中にまだ「スナック」という存在がなかったころの開店だから、最初は『バー ブラック』としてのスタートだった。「小岩の洋酒バーでは、この店が3番目でしたよ」という一枝ママは、その前に会社勤めの経験もあったけれど、「勤めはおもしろくなくて(笑)」、自分で商売をしようと、最初は喫茶店を計画。しかし小岩には喫茶店の主な客層となる会社がほとんどなかったところに、「小岩に洋酒の店ができると聞いて、これからは洋酒の店がいいんじゃないかなって思って始めたんです」。

シックな鏡張りの店内。一枝ママはかならず着物でご出勤

ママを助けてマスター歴30年、長男の孝一マスター

お酒は口をつける程度で、まったくの未経験で酒場を開いただけに、開店当初は試行錯誤の連続だったという。「ふつうはどこかで働いてから独立するんでしょうが・・だから父が私を心配して、“用心棒”で店にいてくれたんですよ」とママ。当時の小岩の繁華街には、ヤクザものも跋扈していたらしいのだが、用心棒代わりのお父さんが「遊び人」だったこともあって、彼らを寄せつけず、無事にいままで来れたそう。


店内には華やかな生花も欠かさない

割り箸の袋で箸置きを折るスナック芸

いまではその豊富な経験が買われ、東京都社交飲食業生活衛生同業組合副理事長など、数々の要職に就く多忙な一枝ママ。ふだんはママの息子さんである孝一さんが、マスターとして采配をふるっている。学生時代は日体大で駅伝部の選手というスポーツ青年だったが、一枝ママが声帯の病気で声が出なくなり、かわりをつとめたのがきっかけで、カウンターに入ったのが20歳のとき。それがいまから30年前というから、もう立派な2代目だ。

『バー ブラック』当時、初々しいママさんと女の子たち、
そしてダンディなお客さん





ちなみに『ブラック』という、スナックには珍しい店名は、開店時に内装からマッチのデザインまで手掛けたくれたひとが絵描きで、キュビズムの画家「ジョルジュ・ブラック」を選んでくれたのだそう。「わたしは少し相撲部屋に出入りしてたんですけど、こんな店の名前だから、お相撲さんは絶対に来てくれません。“黒星”だから嫌がって」とママは微苦笑。

そんな店名もあって、最初に入るまでは勇気がいるって、お客さんに言われることもあるそうだが、いざ入店してみれば、店内は上品でありながら、いかにも下町らしい気楽な雰囲気。「酔っぱらってどうしようもないひと以外はどなたでも入店オーケー」ということなので、スナック初心者にもお勧めの1軒です。


スナック ブラック 江戸川区南小岩7-25-4

駅前からフラワーロードを歩いて3、4分。商店街から奥に入ったすぐの住宅街にあるのが『スナック マキ』。昼間はまったく目立たないが、夜ともなれば暗い道に、看板の上についたパトランプの赤い光が異様に目立つ、見るからに楽しそうな店だ。

商店街から入ってすぐの『スナック マキ』

夜になると、暗い通りにスナックの明かりがポツポツとともる

入ってみれば、おどろくほど広々した店内

「1957年(昭和32)年に23歳で、墨田区曳舟から小岩に嫁いできて、ここで3人の子どもを育てあげたんですよ」という先代ママの智恵子さんが、『マキ』を開いたのは1979(昭和54)年のこと。智恵子さんと、当時大学生だった長男の正勝マスター、それにマスターの弟さんの3人という、家族協力態勢でのスタートだった。

先代の智恵子ママ(左端)と、家族のように仲良しの常連さんたち

お客さんに請われて熱唱する智恵子さん

当然ながら、お母さんも息子も水商売は初めて。なので「最初は海のものとも山のものともつかぬものだったから、息子はマクドナルドでアルバイトしてて、その友達を連れてきたり、私は友人だった東京電力の社員の奥さんにお願いしたりして、どうにかやっていけました」と、開店当時の思い出を智恵子さんは語ってくれたが、お店が軌道に乗ってからは常時満員の大盛況。隣の店が「夜逃げしちゃった」ので、壁をぶち抜いて広い店に改装したり、「ベラちゃんっていうゲイボーイも雇ってて、その子は近所でも有名だったんですよ」というから、いい時代でした。

大学時代からお母さんを手伝いはじめた正勝マスター。
蝶ネクタイ姿は開店当初から不変のスタイル

お客さんが2代目ママになってしまった明美ママ。「歌が
上手いお客さんが多いから、私は飲んでしゃべるのにがんばってます」

その”ベラちゃん”の噂を聞いて、飲みに来たのが2代目の明美ママ。27年ほど前に客として通い出し、やがて昼間の仕事をしながら『マキ』でも働くようになって、正勝マスターと結婚。いまでは引退した先代・智恵子さんを引き継いで、ママ業10年になるベテランだ。

ラブリーなママの携帯・・

開店以来、大きな改装をしていない店内には、昭和の香りを
漂わせるディテールがそこかしこに見てとれる



店内は外から見るよりかなり広くて、興が乗ればセンス片手に舞を披露するお客さんもいたりする。ご近所の歌自慢が夜ごと集まって、それをまたカウンターのマスターがひとりひとり、歌いやすく機械を微調整してくれて、おまけにママお手製の料理もあって。なんだか商店街の、夜のコミュニティ・センターみたいな店でした。

ご近所の歌自慢が集う店でもある『マキ』



興が乗れば扇片手に踊り出すひとも

スナック マキ 江戸川区南小岩7-7-1

フラワーロード商店街を挟んで、『マキ』とは反対側の住宅街にあるのが『スナック 環』。「環」と書いて、「たまき」と読みます。

住宅街のスナックといえば普通だけど、この店はなんとマンションの1階。それも道路に面してるんじゃなくて、マンション玄関を入って、廊下を奥に進んだ突き当たり。どっかのお宅を訪問してるような気分になってくる。

ふつうのマンション玄関が『スナック 環』の入口でもある

玄関を入って、廊下の奥に進んだ先にドア。秘密っぽい・・・

しかし扉を開ければこのとおり、いたってノーマルなお店

もともと環ママのお父さんは「伏見稲荷大社の支部長」という珍しい家柄で、その信徒総代だったのが王貞治の父親。それで墨田区業平にあった王貞治の実家の中華料理屋に通っていたことから、「うちの父が、王貞治の名付け親なんです」という、びっくりするような家族エピソードの持主だ。 

実家のリビングルームのように落ち着いたたたずまい



テーブルに飾られている写真は、板東三津緒お師匠さん

ママの晴れ姿がそこここに。小津安二郎のポスターがあるのは、
「いまの彼氏が、若いころ小津監督の『東京物語』に、大学生の
役で出演したの」。ちなみに小岩にはかつて、俳優が多く住んでいたという


「でも、わたしの人生、波瀾万丈でねえ」と、ママのスナック・トークの始まり。「わたしの上にいた兄たちが、みんな早くに亡くなっちゃったんで、けっきょく長男の役目を負うひとがだれもいないでしょ。それでわたしが長男役を継ぐかたちになっちゃったんですけど、國學院大学を出たころに父が寝たきりになっちゃって、国語と書道の教員免許は持ってたけど、看病しながら教師のような責任ある仕事に就くわけにもいかなくなって・・」、自分で商売をやるぶんには融通がきくだろうと、国語教師の夢を諦め、店を持つ決心をしたという。

しかもママには当時、遠距離恋愛中の彼氏がいたにもかかわらず、親の面倒を見なければならず、「同じ東京に住んでいればね、行ったり来たりできるけど、遠いから諦めちゃったの。恋を捨てちゃったのよ。妹もまだ高校生だったから、勝手もできなかったし」。けなげですねえ・・涙。

小岩で1927年(昭和2年)創業の生花店を営む3代目・ご主人が
お友達を連れて、ふらっと飲みに。「こういう“スナック”っていう雰囲気で
やってるのは、もうほとんどないです。今は居酒屋ばっかりで、
こうゆう店のほうが、ずっといいですよ!」

「昔は、小岩で飲んでいる男は気っ風がよかったわね」と環ママ

最初はスナックではなく『夕顔』という名前の喫茶店を1967(昭和42)年に開いたあと、1979(昭和54)年に『スナック 夕顔』として再オープン。1991(平成3)年に店名を、自身の名前である「環」に変えて現在にいたるというから、喫茶店時代を含めればもう半世紀近く、小岩の盛衰を見てきたことになる。

小学6年生のときに手古舞(てこまい)で、小岩の秋祭りに
参加したときの記念写真(右端がママ)

おととし、江戸川区文化祭総合芸能祭でのステージ

「昭和のころの小岩は、不夜城でしたからねえ」とママ。「新宿や銀座で飲むよりも、小岩に来てたんですから。わたしも30代から40代ごろは、いつも朝まで飲んでいました(笑)。自分の店を閉めるでしょ、それからお客さんたちと、朝までやっているレストランや喫茶店で合流して”夜明けのコーヒー”を飲んでたもんですよ」と、懐かしそうに当時を語ってくれた。


小学生のころから日舞を学んでいたという環ママは、いまも現役バリバリの踊り手でもあり、店内にも舞台の写真がたくさん飾ってある。これでカウンターさえなければ、友達の実家で飲んでる気分。すご〜く居心地いい隠れ家だ。

スナック 環 江戸川区南小岩6-18-14 所ガーデンマンション1F


2011年6月2日木曜日

HELL写真展終了御礼・特選動画!

というわけで、展覧会を見に来てくれたみなさんへの、ささやかなプレゼントをおおくりします。数あるタイ地獄庭園のうちでも、自他共に認めるナンバーワン・ビザール・スポット。タイ島北部イサーン地方の小さな町のはずれにある『ワット・パーラックローイ』の動画によるツアーです。

展覧会では神田岩本町の「ZENSHI」で流していたものなのですが、全編ご覧になれなかった方のために、アップしちゃいました! 安っちい手持ちのビデオ撮影で恐縮ですが、24分41秒、内容は檄辛です! なにせ、撮影するのに丸二日かかっちゃってますし。じっくりお楽しみください。見たらぜったい、行きたくなります。




こ、このパクリは・・・

このところツイッターやブログで話題になっている、強烈なパクリ・ネタ。もうご存じの方も多いと思うので、短く紹介しておくだけにしますが、そもそも話が盛り上がったというか、一気に広まったのは、2011年ビルボード・ミュージック・アワードでの新曲『Run The World (Girls)』のパフォーマンス。

最高にキレのいいダンスと、プロジェクションされた映像が一体となったパフォーマンスは、さすがに見事としか言いようがないのですが(冒頭、賛辞の部分が3分ぐらいあるのでご注意)・・


番組の放映直後から、このステージがイタリアの歌手ロレッラ・クッカリーニが2010年にサンレモ音楽祭で披露していたパフォーマンスのパクリではないかという指摘が、寄せられるようになったわけです。


たしかにコンセプトはまったくそのものなんですが(ただしダンスもルックスも、ビヨンセのほうが数百倍・・)、この指摘に対してビヨンセが反論。パクったのではなく、クッカリーニの映像を見て感激、演出チームを紹介してもらって、今回の演出を依頼したのだということでした。

しかしこのロレッラ・クッカリーニのステージが、なんと日本のパフォーマンス・アートユニット『KAGEMU(カゲム)』のパクリであることが判明! とりあえず、その大元のパフォーマンスをご覧ください。


これはもう・・偶然似ちゃったとか、言い訳しようのないモロ・パクリですねえ。音まで一緒だし・・。

『KAGEMU』はサカクラカツミとハナブサノブユキというふたりのアーティスト/パフォーマーによるユニットで、もともとサカクラさんが1999年に結成したダンス・ユニット『ORIENTARHYTHM(オリエンタリズム)』が母体になっています。ヌンチャクを駆使した「ストリート・ヌンチャク」のシリーズで海外でもよく知られているので、ご覧になったことのある方もいらっしゃるかと。

『KAGEMU』の『Black Sun』は2009年の作品で、同年7月の時点ですでにYouTubeにアップされているので、言い逃れしようがないでしょう。


こちらがKAGEMU/ORIENTARHYTHMのウェブサイト。痛切なステートメントをお読みください——

私にとって「Black Sun」は私が今までしてきた全てのことの集大成です。
私の脳の中の独創的創造力を自分以外の人に説明することはとても難しく不可能なことだと思います。


その"独創性的創造力"を誰もが理解できるように形にしたのが「Black Sun」です。
「Black Sun」はとても大切な宝です。


「この宝さえ持っていれば必ずいつかこの作品を多くの人が認めてくれるようになる」と信じて、
この強い気持ちのみを心と身体のささえにしてここまでがんばってきました。
その宝を横からひったくられ、とても有名なアーティストたちに世界的なイベントで披露されてしまった。


なぜこんなことができるのか?よくこんなことができたものだと不思議に思います。
私の今の気持ちはとても言葉では表せません。


2011年5月26日
サカクラカツミ

そして問題のクッカリーニ、そしてビヨンセの演出を手がけたのは、ニューヨークを拠点に活躍する、実は日本人の映像作家「Kenzo Digital」ことKenzo Hakuta氏。ナム・ジュン・パイクに学んだメディア・アーティストだそうです。

しかい世にパクリは数あれど・・小が大をパクるのはお笑いですんだとしても、大が小をパクっちゃ笑えません。カゲムのふたりだけじゃなくて、ビヨンセだって被害者ですよね(もしカゲムの存在を知らなかったとすれば・・まあ知ってたらやらなかったでしょうし)。

ちなみにKenzo氏、2009年には「世界初のエクスペリメンタル・ヒップホップ・オペラ・ムーヴィ」と銘打った、かなり興味深いプロジェクトを手がけていて、公式ウェブサイトでは音源もフリー・ダウンロード可能。映像も音も、これがかっこいいんですよねえ。



僕はその昔、『サルまねクリエイター天国』なんて連載をやっていたことがありますが、当時作った標語——「パクリ一発、怪我一生」という言葉を、Kenzo氏には噛みしめていただきたいものです。せっかく、こんなにいい仕事してるのに、残念です。ほんとにもったいなさすぎる!

東京右半分:上野公園のビフォア&アフター

新宿御苑、代々木公園、日比谷公園・・東京都心部には意外に大規模な公園が多く、それが住み心地のうえで、大阪や名古屋との大きな違いだったりもするわけだが、上野公園だけにはほかのどんな大規模公園ともまったく異なる、複雑なイメージが絡み合っている。


正式名称を「上野恩賜公園」、地元民からは昔から「上野の山」と呼ばれてきた、総面積約53万㎡に及ぶこの公園には、日本最大級の博物館や美術館があり、動物園があり、音楽会館があり、芸術大学があり、徳川家の墓所である寛永寺をはじめとする歴史的建造物もあり、ボートが漕げる池も野球場もあり、江戸時代からこのかた、現実のドンパチを伴った唯一の内戦=戊辰戦争の舞台でもあり、多数の死傷者で血塗られた場所でもあり、そして都内最大級のホームレスが集まり暮らす場としても知られてきた。ほかの公園にはありえない光と影が、この場所では江戸の昔から交錯してきたのである。


東京文化会館や西洋美術館に向かう文化好きのひとたちと、動物園に急ぐ家族連れと、ブルーテント前の木立にロープをかけて洗濯物を干しているホームレスが、お互い我関せずふうに入り交じって、それが僕などにとっては上野公園ならではの魅力だったのだが(大阪の天王寺公園はすでにその魅力を失ってしまったし)・・久しぶりに上野公園を訪れてみると、そこはブルーテントのかわりに工事の囲いがそこかしこを覆う、またしても大改装の真っ最中なのだった。

東京スナック飲みある記


閉ざされたドアから漏れ聞こえるカラオケの音、暗がりにしゃがんで携帯電話してるホステス、おこぼれを漁るネコ・・。東京がひとつの宇宙だとすれば、スナック街はひとつの銀河系だ。酒がこぼれ、歌が流れ、今夜もたくさんの人生がはじけるだろう場所。


東京23区に、23のスナック街を見つけて飲み歩く旅。毎週チドリ足でお送りします。よろしくお付き合いを!

第16夜:荒川区・日暮里駅前商栄会商店街

日暮里・・と言えばまず「繊維の街」と連想されることが最近は多いけれど(ニポカジ、なんて言葉が一瞬流行りましたねえ)、もともと日暮里は「駄菓子問屋の街」としても有名だった。

戦後の日暮里駅前に統制品だった菓子を扱う露店(闇市)が立ち並んだのが、
日暮里駄菓子問屋街の始まり。1952(昭和27)年の区画整理にともない
駅北東部の一角に移転。近年では戦後の佇まいを残す“観光名所”として人気を
集めていたが、バブル期の駅前再開発事業によって、2004(平成16)年
12月に問屋街は取り壊された。写真は1954(昭和29)年の問屋街の様子
写真提供/荒川区

JR常磐線・京浜東北線・山手線、京成電鉄(本線、成田スカイアクセス線)に日暮里・舎人ライナーまで加わって、都心北東部のハブ的存在になりつつある日暮里駅。もともと日暮里とは江戸時代に「新堀」と表記されていた地で、その風光明媚なことから「日が暮れるのも忘れるほどの地=日暮里」と書いて「ひぐらしの里」などと呼ばれることもあったという。

1963(昭和38)年、諏訪台からの眺め。交通の要衝としてあった
日暮里は明治末期の頃から中小工場の街として発展。戦後は
ウエイスト産業と呼ばれる反故紙や故紙、金属屑を扱う卸売業が
圧倒的多数を占め、再生資源の加工を行う工場も数多く分布していた
写真提供/荒川区

1964(昭和39)年の日暮里駅前広場。かつては噴水が設けられていた
駅前ロータリーだったが、「ひぐらしの里再開発事業」による高層ビルの
建築と日暮里・舎人ライナーの開業によって、駅前の風景は一変している
写真提供/荒川区

その由緒ある地名を取って、終戦直後の闇市時代に端を発する駄菓子問屋街が日暮里駅東口の北側に広がっていたのを、まるごと再開発してしまったのが2000(平成12)年に始まった「ひぐらしの里」計画。竣工なった現在では、かつての昭和的風景はどこにもなく、東口改札を降りると地上40階、36階、25階建ての3棟からなる高層ビル群『サンマークシティ日暮里』なる新街区がそびえ立っている。昭和20年代後半から30年ごろの最盛期には、駅周辺に100軒以上の駄菓子屋・問屋があったという、その懐かしくもこころ躍る光景は、どこにでもあるような3本の高層ビルによって、いまや完璧に消滅してしまった。

現在の日暮里駅東口はこのとおり。昔は街を見おろしていた
であろう太田道灌像も、なんだか居心地わるそう

3棟からなるサンマークシティ日暮里の威容

このあたりが、ほんの少し前までは
昭和の香り漂う駄菓子問屋街だった

日暮里駅前商栄会から、サンマークシティを眺めたところ

こうして、単なる副都心っぽくなってしまいつつある日暮里駅東口の北側エリアだが、高層ビルの裏側を歩いてみると、少しだけ、在りし日の日暮里の風情を漂わせるエリアが残っている。それが日暮里駅から西日暮里駅にかけて、線路に沿うように伸びる「日暮里駅前商栄会」と呼ばれる商店街だ。


サンマークシティの高層ビルに見おろされている感のある、この短い商店街。ゆるやかにカーブする線路と、北側にある尾久橋通りに囲まれた、ヨットの帆のようなかたちをした一角に、居酒屋やラブホテルとともに数軒のスナックも営業中。そのどれもが、なかなか個性的な店である。「日暮里の駅前に位置し、区内で唯一防犯カメラを設置している安全・安心の商店街です」(あらかわ区報「荒川区商店街マップ」)でもあるらしいこの商店街の、気になるスナック2軒に今回は飛び込んでみた。

来週は江戸川区小岩を飲み歩きます。

今夜の1軒目は、商店街の中ほどに可愛らしいエントランスをかまえる『スナック 愛』。いかにも老舗スナックらしい店名だが、実は中国人の愛ママが2006(平成18)年に開いて、今年が5年目というお店。

女性らしい外観と角地で、入りやすい雰囲気の『愛』。
お隣の居酒屋『大㐂里』は、安くておいしいと界わいで評判の店。
女将さんと愛ママとは、「家族みたいなお付き合い」だそう


赤を基調にして、落ちついたなかにも華やかさが漂う店内

どうりでチャイナドレスがよく似合う愛ママは、リゾート地として有名な海南島(ハイナン島)出身。留学生として10年前に来日した。日本語学校で勉強したあと、最初に働いたのが西日暮里近くの、日本人経営のスナック。そこを辞めるにあたって、同じく退職した同僚ホステスと「一緒にがんばろう」と、自分の店を持つことを決意。「だからわたし、西日暮里とこっち(日暮里)しか知らないんですよ」と明るく笑う。

もともとは中国物産店だったという物件を、1ヶ月かけて大改装。故郷・海南島出身を含む中国人・日本人のホステスさんを揃えて開店にこぎつけたが、自分で店を持つに際しては「指名とか、同伴のわずらわしさをなくしたかったんです。働く女の子もそうですけど、お客さんも気楽に来られる店にしたかったの」。

各テーブルにはかわいらしい生花が

カラオケ・ステージには電飾のハートマーク

愛ママとデュエットでご満悦、ママが「日暮里のお父さん」
と慕う、日暮里駅前商栄会の会長さん

キャバクラやクラブみたいにガツガツ厳しく営業するのではなくて、「お客さんと友達みたいに、歌ったり、飲んだり、おしゃべりしたいんです」。夜も早い時間から席を埋める、地元の常連さんたちを見ていると、たしかにお客さんもお店の子も、もちろんママもみんな友達、大きな家族みたいに思えてくる。

お通しもラブリーでした。ちなみに『愛』という店名は、
前に勤めていたスナックのママがつけてくれたそう

スナック 愛 荒川区西日暮里2-52-6 

『愛』からもう少し西日暮里寄りに歩いた先にあるのが『ピース』。クールなブルーの看板と、ノスタルジックな「ピース」の字体が印象的だが、こちらは台湾出身の春ママが2003(平成15)年に開いた、今年で8年目を迎えるスナックだ。

そこはかとなくノスタルジックな『ピース』。店名の由来は、
「日本に来て、みなさんのおかげで、すごく幸せで平和な日々を
送れてきたので、その感謝の意味を込めて」名づけたのだそう

台湾出身の春ママが来日したのは、1980年代なかばごろ、もう25年ほど前になる。初めて来た場所が日暮里で、それから「ずーっとここ、日暮里から離れてないの」。

来日して、まずは山野愛子美容室で働き、それからアクセサリー会社に就職するが、「もう年だから、お店でもやろうかな」とある日思い立ち、日本人の友達たちに助けられながら開店にいたる。それまで水商売なんてしたことなかったから、「なんにもわからなかったんで、営業許可はこう、法律はこうなのよって、北海道のお姉さん(ママの大親友)に全部、教えてもらったんです」。

最初はみんなフリー客、でもすぐに仲良くなって
しまう、不思議な磁場を持った店である

ボウリング大会を年にいちど、麻雀大会が年に
二度。クラブ活動の部室みたいだ

手探り状態でのスタートだったし、本人は「3ヶ月か、長くても1年ぐらいで潰れるかなーって思ってたの」と言うが、フリーのお客さん同士がすぐに仲良くなって、万全のサポート態勢で8年目を迎えるまでになった。

お客さんを喜ばせるイベントも盛りだくさん。このところ、
「毎週金曜日はセーラー服ナイトにしてるんです。
みんなセーラー服着るのよ!」とママさん

ママの娘さんである「いくえ」さんは、『ピース』の看板娘。
カウンターのお客さんいわく、「おれねー、この子のオムツ
替えたことだってあるんだからね!」

セーラー服姿の母娘、ママといくえさん

昼間はネイルサロンで働いているという、がんばり屋のいくえさんは、
お客さんたちに大人気。デュエットにも気軽に応じてくれますが・・

ちょっと接近しすぎたりすると・・

お母さんの厳しいチェックが入ります

やけに歌上手の多い店でもある

うれし恥ずかしデュエット・タイム


『ピース』のオールスター、左からいくえさん、
春ママ、あゆさん、チーママのトミーさん

毎年7月と12月には、浴衣とサンタクロース姿で
接客するコスプレ・ナイトもあるそうです

「よくわかんないけれど、みんな仲がよくなるの。昔からの友達みたいになって、なんにも気にしなくて、おしゃべりする感じになるんです」というのも、ママの明るい、ものすごくフレンドリーなキャラクターのたまものだろう。常連さん同士が仲いい店はいくらでもあるけれど、これだけ一体感というか、大家族の里帰り宴会みたいに盛り上がってる店って、なかなかないです。

開店当時からママがお世話になりっぱなしの「タケちゃん」と、
『あづま男と浪花のおんな』(北島三郎・中村美律子)をデュエットするママ

おふたりとも絶品の歌声でした

ピース 荒川区西日暮里2-54-2

2011年5月26日木曜日

タイ地獄寺写真展『HELL』、今週末まで!


神田岩本町の『ゼンシ』と、東上野の『ガレリア・デ・ムエルテ』で同時開催中の、タイの地獄庭園を撮影した写真展『HELL』。ついに今週土曜でお終いです!

神田のZENSHIではモノクローム調の大判プリントを、以前に東京右半分でも取り上げた東上野のMUERTEでは、彩度バリバリのカラー・プリントを壁中にびっしり並べて、熱帯風味のエログロ宇宙を堪能していただく趣向です。



最終日、28日の土曜日は、僕も会場に顔を出す予定です。だいたい午後1時〜2時が東上野、5時過ぎからは神田岩本町に在廊してます。詳しくは各画廊まで。ぜひお出でください!

千代田区神田岩本町4
Tel: 03-6206-8078
開廊 13:00 - 19:00 / 休廊 水曜 + 日曜

GALERIA DE MUERTE
台東区東上野 3-32-1-3F
03-3835-8278
開廊 12:00 - 19:00 / 休廊 日曜 + 月曜
※火曜日 要アポイントメント

ROADSIDE USA 特別価格、まもなく終了!


発売から半年間の特別価格期間(9975円)が、今月末で終了してしまいます。6月1日からは通常価格の1万2000円。3000円の差は大きい! まだのかたは、ぜひ今月中にお求めください。内容詳細はこちらの特設サイトで。


VOBO 妄想芸術劇場 第14回 るのわーる


投稿作品の数こそ、他の常連投稿者のように多くはないのだが、その特異な画風でニャン2創刊当時から知られてきたのが「るのわーる」である。読んで字のごとく、という比喩が、これほどぴったり当てはまる投稿作家もいないだろう。るのわーる氏の描くのは、つねに豊満な女性である。その多くに登場するヒロインは「L(エル)ちゃん」、または年増の「ババLちゃん」である。




東京右半分 城東職業能力開発センター 製くつ科

浅草の駅を降りて、松屋の横を通り過ぎて馬道通りをしばらく歩くと、右側に都立産業貿易センター台東館という、無骨な建物が見えてくる。馬道通りのこのあたりと、隅田川に沿った江戸通り、そして北側の言問通りを結んだ細長い三角形のエリアが、住所で言えば花川戸2丁目。そして、一辺の長さがおそらく500メートルにも満たないこの三角形が、日本最大の靴産業の集積地であることを、業界人以外で知るひとは少ないだろう。



産業貿易センターの角を右に曲がると、左側に公園、その向かいにあるのが浅草保健相談センターだが、その同じビルの中に日本で唯一、公共機関で靴製造を教える<城東職業能力開発センター台東分校・製くつ科>が入っている。靴のデザインや製造を教える民間の学校や個人の工房はいくらでもあるが、公立の学校はここだけ。先週の記事でご紹介した足立区江北のオーダーシューズ工房『nakamura』の中村隆司・民夫妻も、ここで出会い、いっしょになって独立したふたりである。


10世紀のドイツのモカシン!