閉ざされたドアから漏れ聞こえるカラオケの音、暗がりにしゃがんで携帯電話してるホステス、おこぼれを漁るネコ・・。東京がひとつの宇宙だとすれば、スナック街はひとつの銀河系だ。酒がこぼれ、歌が流れ、今夜もたくさんの人生がはじけるだろう場所。
東京23区に、23のスナック街を見つけて飲み歩く旅。毎週チドリ足でお送りします。よろしくお付き合いを!
第17夜:江戸川区・小岩駅南口飲食街
都心からJR総武線に乗って千葉方面に。隅田川を越え、荒川・中川を越え、さらに新中川を越えると、そこが小岩駅。その先はもう、江戸川を渡って千葉県だ。江戸川区小岩・・・東京のイーストエンドである。
駅を降りれば南側に商店街、北側には飲食街を中心とする、雑然とした街並みが広がり、いかにも郊外ターミナルの風情。ロータリーからひっきりなしに出ていくバスが、乗客たちを郊外住宅地に運んでいく。シャッターを下ろしたままの古い店舗、スーパーマーケット、コンビニ、チェーン居酒屋、韓国パブにマッサージ、風俗店・・なんともゆるい空気が、駅から直径1キロほどのエリアにどんより覆いかぶさっているようだ。
1955(昭和30)年ごろ、高架になる前の小岩駅。小岩駅は
1899(明治32)年5月に総武鉄道(当時)の駅として開業。
当初は南口だけだったが、1946(昭和21)年に北口の開設以降、
何度か改築工事が施された後、1972(昭和47)年、総武線の
複々線化によって木造駅舎は姿を消した
写真提供/江戸川区郷土資料室
2011年現在の小岩駅南口。ロータリーの大木が一服の涼を添える
「小岩には大きな会社がないんです。いちばん大きな建物が警察と学校、それに区役所ぐらい。飲食店と一般商店、住宅だけで約10万の人口になったという、珍しい街だと言われてるんです」と教えてくれたのは、南口駅前に伸びる小岩駅前通り美観商店街(小岩フラワーロード商店街) 会長の吉田義昭さん。お父さんの代から商店街で鮮魚販売や仕出しの店『魚清』を営む吉田会長は、小岩飲食街の栄枯盛衰とともに生きてきた。
いま小岩を歩くひとには想像できないかもしれないが、かつてこの街は夜ともなれば、錦糸町を超えるクラブの店舗数を誇った、城東地区最大の歓楽街だったという。「昔の小岩にはね、ホステスの給料が銀座と同じぐらいの高級クラブが、ずいぶんとあったんですよ」と吉田さんは、懐かしそうに思い出話を披露してくれた。「35年から40年前ぐらいの話になりますが、ホステスはみんな着物姿でね、サラリーマンの月給が1万円だった時代に、5千円のセット料金でした。しかもオードブルは乾き物じゃなくて、クラブなのにお刺身を出してたんだから!」。
1946(昭和21)年10月、道路整備のために駅前の露店が立ち退いて、
その受け皿として出現した「小岩ベニスマーケット」。しかし
衛生面と防火面が問題視され、1951(昭和26)年に都が除去勧告。
マーケット住民との交渉は長引いたが、1962(昭和37)年には
全戸の移転が完了した。写真は昭和通りと中央通りの交差点付近から
撮影された1950(昭和25)年ごろの小岩ベニスマーケット
同じ場所を、いま見てみるとこのとおり、ドブ川に板を渡して
建てたバラック・・なんて面影はどこにもない
銀座と同格の高級クラブがひしめき、駅北口側には「ハリウッド」チェーンをはじめとするキャバレーが軒を連ね、小岩の夜はたいへんな賑わいだったらしい。総武線が複々線化され、東京駅を起点とする総武快速線が新小岩から、小岩を飛ばして市川に行ってしまったり、都営新宿線が本八幡と新宿を結ぶようになるまでは、船橋、浦安、本八幡の富裕層にとって、小岩がいわば「東の銀座」だったわけだ。
夜の小岩のメインストリートは、昔もいまも駅の東側をほぼ南北につらぬく小岩中央通りである。そもそも終戦直後、小岩駅前で露天商(闇市マーケット)を営んできた罹災者や引揚者らが、1946(昭和21)年10月に道路整備のために立ち退きを余儀なくされ、現在の小岩中央通りに数十軒もの飲食店や乾物店などが軒を連ねた通称「ベニスマーケット」を作ったのが、その始まり。もともとここにはドブ川(用水路)が流れていて、その上に板を張り、簡素な建物を建てて店舗としたことから、そんな名前がつけられたのだという。
ベニスマーケットは都の除去勧告もあり、5年の歳月を経て1962(昭和37)年に移転が完了、いまの中央通りをいくら眺めても、その痕跡すら見つけられないが、考えてみれば東京オリンピックが開かれるたった2年前まで、そんな奇妙でパワフルな場所が、東京のはずれにあったというのも、想像してみるとなんだかうれしくなる。
アーケード街になる前の小岩駅前通り(現在のフラワーロード)の様子。
小岩駅前通り美観商店街(小岩フラワーロード商店街)は1947(昭和22)年に
結成、1952(昭和27)年〜1953(昭和28)年には、1733メールにも及ぶ
江戸川区では最初のアーケードを完成させた。写真左に見えるパン屋の
「丸十ベーカリー」は現在、貸催事場となっている
写真提供/江戸川区郷土資料室
ちょうど同じ場所の、現在のフラワーロードを見る。
シャッターを下ろしたままの店や空き店舗もちらほら
小岩駅南口前からまっすぐに伸びるフラワーロード商店街の入口
小岩はまた、東京屈指の赤線地帯としても長く知られてきた。駅南口からフラワーロードを南にずっと下った先、二枚橋と呼ばれる場所に、終戦後すぐ作られたのが名高い『東京パレス』。進駐軍のための”性の防波堤”、つまりは巨大な慰安施設(RAA)である。進駐軍の立ち入り禁止後に赤線となった東京パレスは、坂口安吾などもルポを残しているが、「あそこにはダンスホールもあって、戦後の貧しい時代に、信じられないぐらいの別世界。なのでパレス周辺にも寿司屋に洋食屋、喫茶店と、30〜40軒ぐらいは店があったでしょうか」と言う吉田会長も、「親父に言われて中学生のころから、赤線に配達に行ってた」そうだ。
1958(昭和33)年3月の赤線廃止まで、ベニスマーケットと東京パレス一帯という、二大飲食街を擁していた小岩。いまも、事情通によれば風俗はかなりの”穴場”らしいが、過ぎし日の栄光(?)に思いを馳せながら、昔話を聞けそうな店を探して歩くのも楽しい。今夜は南口駅前からフラワーロード周辺の老舗スナックをご紹介しよう。
来週は墨田区押上を飲み歩きます。
商店街のすぐ裏には、閉店したままの立派な銭湯も
あったりして、ちょっと寂しげだ
小岩の夜を飲み歩く1軒目は、駅南口を降りてすぐ左側に、線路に沿って伸びる「地蔵通り」の『スナック ブラック』。一枝ママは浅草生まれの深川育ち、戦中に建物疎開(空襲による火災の延焼を防ぐための強制立ち退き)で小岩に引っ越してきた、生粋の下町っ子だ。地蔵通りに店を構えたのが1956(昭和31)年9月のことというから、はや56年。自他ともに認める老舗中の老舗スナックであります。
線路に沿って店舗が並ぶ、駅前の地蔵通り。昼間はこんなぐあいに、
閑散とした雰囲気。この裏手に、同じく「地蔵通り」と書かれた飲食街が
あり、いまではそちらを地蔵通りと思ってるひとが多いが、もともとは
こちらが本通り、もう一本が私道なのだそう。「線路が高架になる前は、
こっちがメインの通りだったんですよ」と、ママが教えてくれた
夜のとばりが降りると、地蔵通りには別の空気が流れ出す。
いまでは居酒屋に風俗店も多いが、「わたしが店を出したころは、
パチンコ屋がずらっと並んでて、”パチンコ横丁”って呼ばれてました」と
ママ。「パチンコの組合の会長さんも小岩にいらして、
全国的にも有名なところでした」という
世の中にまだ「スナック」という存在がなかったころの開店だから、最初は『バー ブラック』としてのスタートだった。「小岩の洋酒バーでは、この店が3番目でしたよ」という一枝ママは、その前に会社勤めの経験もあったけれど、「勤めはおもしろくなくて(笑)」、自分で商売をしようと、最初は喫茶店を計画。しかし小岩には喫茶店の主な客層となる会社がほとんどなかったところに、「小岩に洋酒の店ができると聞いて、これからは洋酒の店がいいんじゃないかなって思って始めたんです」。
シックな鏡張りの店内。一枝ママはかならず着物でご出勤
ママを助けてマスター歴30年、長男の孝一マスター
お酒は口をつける程度で、まったくの未経験で酒場を開いただけに、開店当初は試行錯誤の連続だったという。「ふつうはどこかで働いてから独立するんでしょうが・・だから父が私を心配して、“用心棒”で店にいてくれたんですよ」とママ。当時の小岩の繁華街には、ヤクザものも跋扈していたらしいのだが、用心棒代わりのお父さんが「遊び人」だったこともあって、彼らを寄せつけず、無事にいままで来れたそう。
店内には華やかな生花も欠かさない
割り箸の袋で箸置きを折るスナック芸
いまではその豊富な経験が買われ、東京都社交飲食業生活衛生同業組合副理事長など、数々の要職に就く多忙な一枝ママ。ふだんはママの息子さんである孝一さんが、マスターとして采配をふるっている。学生時代は日体大で駅伝部の選手というスポーツ青年だったが、一枝ママが声帯の病気で声が出なくなり、かわりをつとめたのがきっかけで、カウンターに入ったのが20歳のとき。それがいまから30年前というから、もう立派な2代目だ。
『バー ブラック』当時、初々しいママさんと女の子たち、
そしてダンディなお客さん
ちなみに『ブラック』という、スナックには珍しい店名は、開店時に内装からマッチのデザインまで手掛けたくれたひとが絵描きで、キュビズムの画家「ジョルジュ・ブラック」を選んでくれたのだそう。「わたしは少し相撲部屋に出入りしてたんですけど、こんな店の名前だから、お相撲さんは絶対に来てくれません。“黒星”だから嫌がって」とママは微苦笑。
そんな店名もあって、最初に入るまでは勇気がいるって、お客さんに言われることもあるそうだが、いざ入店してみれば、店内は上品でありながら、いかにも下町らしい気楽な雰囲気。「酔っぱらってどうしようもないひと以外はどなたでも入店オーケー」ということなので、スナック初心者にもお勧めの1軒です。
スナック ブラック 江戸川区南小岩7-25-4
駅前からフラワーロードを歩いて3、4分。商店街から奥に入ったすぐの住宅街にあるのが『スナック マキ』。昼間はまったく目立たないが、夜ともなれば暗い道に、看板の上についたパトランプの赤い光が異様に目立つ、見るからに楽しそうな店だ。
夜になると、暗い通りにスナックの明かりがポツポツとともる
入ってみれば、おどろくほど広々した店内
「1957年(昭和32)年に23歳で、墨田区曳舟から小岩に嫁いできて、ここで3人の子どもを育てあげたんですよ」という先代ママの智恵子さんが、『マキ』を開いたのは1979(昭和54)年のこと。智恵子さんと、当時大学生だった長男の正勝マスター、それにマスターの弟さんの3人という、家族協力態勢でのスタートだった。
先代の智恵子ママ(左端)と、家族のように仲良しの常連さんたち
お客さんに請われて熱唱する智恵子さん
当然ながら、お母さんも息子も水商売は初めて。なので「最初は海のものとも山のものともつかぬものだったから、息子はマクドナルドでアルバイトしてて、その友達を連れてきたり、私は友人だった東京電力の社員の奥さんにお願いしたりして、どうにかやっていけました」と、開店当時の思い出を智恵子さんは語ってくれたが、お店が軌道に乗ってからは常時満員の大盛況。隣の店が「夜逃げしちゃった」ので、壁をぶち抜いて広い店に改装したり、「ベラちゃんっていうゲイボーイも雇ってて、その子は近所でも有名だったんですよ」というから、いい時代でした。
蝶ネクタイ姿は開店当初から不変のスタイル
お客さんが2代目ママになってしまった明美ママ。「歌が
上手いお客さんが多いから、私は飲んでしゃべるのにがんばってます」
その”ベラちゃん”の噂を聞いて、飲みに来たのが2代目の明美ママ。27年ほど前に客として通い出し、やがて昼間の仕事をしながら『マキ』でも働くようになって、正勝マスターと結婚。いまでは引退した先代・智恵子さんを引き継いで、ママ業10年になるベテランだ。
ラブリーなママの携帯・・
開店以来、大きな改装をしていない店内には、昭和の香りを
漂わせるディテールがそこかしこに見てとれる
店内は外から見るよりかなり広くて、興が乗ればセンス片手に舞を披露するお客さんもいたりする。ご近所の歌自慢が夜ごと集まって、それをまたカウンターのマスターがひとりひとり、歌いやすく機械を微調整してくれて、おまけにママお手製の料理もあって。なんだか商店街の、夜のコミュニティ・センターみたいな店でした。
ご近所の歌自慢が集う店でもある『マキ』
興が乗れば扇片手に踊り出すひとも
フラワーロード商店街を挟んで、『マキ』とは反対側の住宅街にあるのが『スナック 環』。「環」と書いて、「たまき」と読みます。
住宅街のスナックといえば普通だけど、この店はなんとマンションの1階。それも道路に面してるんじゃなくて、マンション玄関を入って、廊下を奥に進んだ突き当たり。どっかのお宅を訪問してるような気分になってくる。
玄関を入って、廊下の奥に進んだ先にドア。秘密っぽい・・・
しかし扉を開ければこのとおり、いたってノーマルなお店
もともと環ママのお父さんは「伏見稲荷大社の支部長」という珍しい家柄で、その信徒総代だったのが王貞治の父親。それで墨田区業平にあった王貞治の実家の中華料理屋に通っていたことから、「うちの父が、王貞治の名付け親なんです」という、びっくりするような家族エピソードの持主だ。
実家のリビングルームのように落ち着いたたたずまい
「いまの彼氏が、若いころ小津監督の『東京物語』に、大学生の
役で出演したの」。ちなみに小岩にはかつて、俳優が多く住んでいたという
「でも、わたしの人生、波瀾万丈でねえ」と、ママのスナック・トークの始まり。「わたしの上にいた兄たちが、みんな早くに亡くなっちゃったんで、けっきょく長男の役目を負うひとがだれもいないでしょ。それでわたしが長男役を継ぐかたちになっちゃったんですけど、國學院大学を出たころに父が寝たきりになっちゃって、国語と書道の教員免許は持ってたけど、看病しながら教師のような責任ある仕事に就くわけにもいかなくなって・・」、自分で商売をやるぶんには融通がきくだろうと、国語教師の夢を諦め、店を持つ決心をしたという。
しかもママには当時、遠距離恋愛中の彼氏がいたにもかかわらず、親の面倒を見なければならず、「同じ東京に住んでいればね、行ったり来たりできるけど、遠いから諦めちゃったの。恋を捨てちゃったのよ。妹もまだ高校生だったから、勝手もできなかったし」。けなげですねえ・・涙。
お友達を連れて、ふらっと飲みに。「こういう“スナック”っていう雰囲気で
やってるのは、もうほとんどないです。今は居酒屋ばっかりで、
こうゆう店のほうが、ずっといいですよ!」
「昔は、小岩で飲んでいる男は気っ風がよかったわね」と環ママ
最初はスナックではなく『夕顔』という名前の喫茶店を1967(昭和42)年に開いたあと、1979(昭和54)年に『スナック 夕顔』として再オープン。1991(平成3)年に店名を、自身の名前である「環」に変えて現在にいたるというから、喫茶店時代を含めればもう半世紀近く、小岩の盛衰を見てきたことになる。
小学6年生のときに手古舞(てこまい)で、小岩の秋祭りに
参加したときの記念写真(右端がママ)
おととし、江戸川区文化祭総合芸能祭でのステージ
「昭和のころの小岩は、不夜城でしたからねえ」とママ。「新宿や銀座で飲むよりも、小岩に来てたんですから。わたしも30代から40代ごろは、いつも朝まで飲んでいました(笑)。自分の店を閉めるでしょ、それからお客さんたちと、朝までやっているレストランや喫茶店で合流して”夜明けのコーヒー”を飲んでたもんですよ」と、懐かしそうに当時を語ってくれた。
小学生のころから日舞を学んでいたという環ママは、いまも現役バリバリの踊り手でもあり、店内にも舞台の写真がたくさん飾ってある。これでカウンターさえなければ、友達の実家で飲んでる気分。すご〜く居心地いい隠れ家だ。
スナック 環 江戸川区南小岩6-18-14 所ガーデンマンション1F