2011年8月11日木曜日

東京スナック飲みある記


閉ざされたドアから漏れ聞こえるカラオケの音、暗がりにしゃがんで携帯電話してるホステス、おこぼれを漁るネコ・・。東京がひとつの宇宙だとすれば、スナック街はひとつの銀河系だ。酒がこぼれ、歌が流れ、今夜もたくさんの人生がはじけるだろう場所。

東京23区に、23のスナック街を見つけて飲み歩く旅。毎週チドリ足でお送りしてきましたが、とうとう今夜が23区目の最終回。よろしくお付き合いを!

第23夜:千代田区・神田駅西口飲食街

85万人の昼間人口と、4万5000人の夜間人口がいると言われる千代田区。昼間の人口が夜間、つまり地元に暮らす人口の約20倍。中央区の6倍強、港区の5倍弱を引き離す、東京随一の(ということはおそらく日本随一の)「昼間は過密、夜は過疎」地域である(ちなみに東京23区全体の昼夜間人口比は1.3倍ほど)。

丸の内があり、霞ヶ関があり、半蔵門、麹町があり、九段があり、そして皇居があり・・こんな超都心にスナック街なんてあるんかと疑問に思う方も多かろうが、あるんですね、これが一ヶ所だけ。JR神田駅周辺の飲食街がその、「千代田区唯一のスナック密集地」なのだ。

戦時中の空襲によって神田一帯も焼け野原となった。写真は終戦の翌年、
1946(昭和21)年9月15日に撮影された神田鎌倉町(現在の内神田
1丁目〜3丁目あたり)の様子。「アメリカさんありがとう」の山車は、
当時パン屋を営んでいた柴田氏所有のもの。ジープの向こうの
ビルは焼夷弾を浴びて焼けた旧楓ビル(内神田2-3-6)
写真提供/楓ビル

上の写真から12年後、1958(昭和33)年にほぼ同じアングルから
撮影された鎌倉町大神輿小神輿渡御の様子で、神龍小学校
(現・千代田区立スポーツセンター)前の外堀通りを鎌倉橋交差点から
龍閑橋方向に向かっている。写真中央のテントが張り出した3階建てのビルが、
焼けビルから改修された旧楓ビル。1988(昭和63)年の建て替えまで実存していた
写真提供/楓ビル

すぐとなりは東京駅だし、秋葉原駅、地下鉄の東日本橋駅や小伝馬町駅、大手町駅、淡路町駅なども徒歩圏内。しかし通勤通学に神田駅を利用している多くの人間にとって、神田駅周辺は「チェーン居酒屋やディスカウントショップやマッサージ屋ばかりが目立つ、地味な街」なのではないか。おしゃれに生まれ変わっている東京駅・丸の内エリアと、世界的なブランドとなった秋葉原に挟まれ、かといって新橋のようにサラリーマン天国としてアイデンティティを見いだすこともないまま、「神田」という地名のイメージは、残念ながら低下するいっぽうである。かつては「芝で生まれて神田で育ち 今じゃ火消しの 纏(まとい)持ち」と端唄(はうた)に歌われたように、神田と言えば下町文化の象徴であったのに。

オフィスビルや学校ビルの進出による昼間人口の増加にともない、
神田地区の商店街は小売商店街から飲食街への性格を強めていったという。
写真は1979(昭和54)年、神田駅西口の商店街の様子
写真提供/千代田区広報広聴課

2011(平成23)年現在の神田駅西口商店街入口あたり

そもそも江戸幕府開府とともに、職人街として成立した神田。住所改正前には鍋町、紺屋町、蠟燭町、堅大工町、塗師(ぬし)町といった、その職種を連想させる小さな職人町がいくつもあったことからも、神田という街の成り立ちがよくわかる。今回の取材で神田の昔話をお聞きした神田生まれの神田育ち、現在は家具・インテリア・雑貨を取り扱う株式会社楓屋・専務取締役の田熊清徳さんによれば——

うちのエリアも以前は鎌倉町という名で、材木商の町と言われてました。うちはもともと家具屋ですが、家具の職人がたくさん住み込んでいましたね。そうすると賄いのお手伝いさんもいますから、家族の4倍ぐらいの人数になります。1軒だけでそれだけの住民がいることになるんですね。各町会(ブロック)ごとに1軒は銭湯もありましたから、神田駅周辺だけで(銭湯が)10軒はあったんですよ。

それだけ働き、住み暮らす人々がいれば、商店街もにぎやかになるわけで、かつては生鮮食品や総菜屋、呉服屋、生活雑貨の店などがずらりと並ぶ、いかにも下町らしい商店街が駅前に広がっていた。

西口のガード下に年季の入った居酒屋が並ぶ神田小路。
実はどの店も2階建てで、1階の天井の一部に穴が空いていて、
そこからハシゴで2階に上がれる。いまは荷物置き場と
なっている店がほとんどだが、昔はそこが住まいになっていたという

終戦直後の神田駅前は、例によって一大闇市エリアとなったようだが、1949(昭和24)年の露店撤去令によって、露店はガード下や共同長屋の店舗に移転、それが今日の神田駅周辺の飲食街の原型となっている(昭和25年の神田駅付近のマーケット地図を見ると、「バー」「のみや」「とんかつ」と記された店舗がひしめいているのがわかる)。

「一時期の神田駅周辺はキャバレーがたくさんありました」と言う田熊さんによれば、ガード下には「スター東京」(現在は「はなの舞」という居酒屋)という大きなキャバレーがあり、その周辺にも「ハリウッド」「ウルワシ」「星座」といった大小さまざまなキャバレーやクラブがあったという。「パリー」という名のキャバレーもあって、駅南口改札を出た駅前の通りは「パリー通り」と呼ばれていたそうだ。

かつてキャバレー『スター東京』があった場所も、
いまはチェーン居酒屋に

夜になるとマッサージ屋の看板も目立つ
西口商店街かいわい

駅前はガード下に飲み屋がひしめき、キャバレーやクラブの華やかなネオンが輝き、買い物客でいっぱいの商店街を抜ければ、昔ながらの下町らしい住宅や作業場が広がる・・・こんないい町ってあるだろうかと思ってしまうが、そんな神田が変わりはじめたのは、田熊さんによればもう40年ほども前からだった——

戦後から人口は徐々に減ってはきていて、それでも50年前ぐらいは人も多く住んでいましたが、40年前ぐらいからかな、人口がどんどんと減っていって、同時にオフィス街になっていきました。神田は場所的に大手町に接していることと固定資産税もあって、1階を自分の店舗にして貸しビル業を副業としてやるようになるんですね。しかし店舗にしても、人口が減ると住民相手の商売が成り立たなくなりますから。じゃあ、街の形態にあったところに貸すとなると飲食店になる。
昼間の人口が増えてくると、やっぱり商売も飲食関係になりますから、食べ物屋や飲み屋の街になってくる。でも家賃は高いので、個人経営の飲食店がやっていくにはなかなか難しい。どうしても大手資本による飲食店が増えてくるんですね。もちろん、そういうなかでがんばってる個人商店さんも、まだまだあるんですけど。

駅北口を出て神田警察通りの南側にある、路地が入り組んだ一角には、
エレベーターがないビルや、古い飲食店の店舗が路地の両脇に並び、
わずかに往年の飲み屋街の雰囲気を残している



駅前にスーパーのひとつもないから、食料品を買うにも日本橋のデパートまで行かなくてはならないなど、住む人間にとってはかなり暮らしにくい街になってしまった神田駅周辺。西口のガード下にある「神田小路」、戦後に満州から引き揚げてきた浅丘ルリ子が育ったという、南口からすぐの「今川小路」・・神田駅周辺には昭和の雰囲気をそのまま伝える、タイムトンネルのような区画が少しだけ残っているが、それもいまや風前の灯火である。

現にJR東日本は上野駅が起点となっている東北本線を東京駅まで乗り入れる「東北縦貫線」という新路線を建設中で、そのため神田駅エリアでは東北新幹線の上に高架線を乗せる「2階建て」工事が進行している。同時に、いま御徒町で進行中の再開発のように、ガード下にひしめく小料理屋を一掃して、遊歩道にしようという計画が進んでいるとも聞く。

駅南口を東京駅方面に少し歩いたガード下が今川小路。
満州から引き揚げてきた浅丘ルリ子が、このあたりで育った。
田熊さんいわく、本人も「神田が第二の故郷」と言っているとか


繁華街の駅ビルがぜんぶアトレみたいになって、ガード下が御徒町の「2k540」みたいなデザインショップやおしゃれカフェで埋まったら、東京はどれだけつまらない場所になってしまうことだろう。

今年の2月から半年あまりにわたったスナック街飲み歩きの旅は、思い返せば「再開発」という名の文化破壊行為に追いかけられ、追い立てられる旅でもあった。

汚い小路や古びた横丁が、きれいな商業ビルや”複合文化施設”に生まれ変わって、土地の価値がアップすれば、地面やビルを持ってるひとはうれしいだろうが、30年、40年とその場所でずーっと小さな商売をやってきたスナック・ママが、「お金あげるから、ここ退いてどっかで新しい店やってください」とか言われて、もういちどゼロから店をつくったりできるだろうか。酒と唄とおしゃべりの楽しみに、今夜は寂しさと憤りの苦みを少しだけ振りかけて、神田駅西口エリアの名店を飲み歩いてみよう。

そしてこの連載は10月に単行本となって発売予定です。飲み歩きのお供に、よろしかったら連れてってやってください。

今夜の1軒目は神田駅西口から歩いて3、4分。ごくふつうのオフィスビル地下で、もう30年も営業中という老舗の『スナック 和』から。

階段を降りてドアを開けると、まずカウンター、その奥にボックス席。神田の常として、お客さんはほとんどスーツやワイシャツ姿のビジネスマンだ。

商店街の奥、夜は静かなエリアにある『スナック 和』

急な階段を降りていくと、そのまま店内に至る

座り心地良さそうなスツールが高級感を演出している

場所柄、お客さんは100%近くビジネスマンだ

『スナック 和』の和子ママは、1970年代のはじめごろ(昭和40年代後半)に赤坂の高級キャバレー『ミカド』でお勤めしたのが、水商売のスタートだった。離婚後、「いまだといろんな仕事があるけれど、あのころは水商売ぐらいだから」と、生活のために選んだ職場だったが、当時の『ミカド』といえば日本一のグランドキャバレー。北海道と渋谷にあった『エンパイア』、神戸の『新世紀』といった高級キャバレーも同じ経営だった一大キャバレー・グループで、「それはもう、素晴らしい店だったわよ〜、ホステスも800人はいてね。ナンバーワン・ホステスさんなんて、一日に70もの指名が入って、回れますかって(笑)」と、思い出話が尽きない。


店の奥はゆったり寛げるソファ・エリア

今夜は常連さんから取れたてのスイカがどっさり差し入れ

店の前にはポーターがいて出迎えるんだけど、並ぶ車がロールスロイスとかキャデラックとかジャガーやポルシェとか、外車ばっかり。あのころだからソープランドじゃなくて、吉原のトルコ王って呼ばれてた社長さんの車なんて、金色のロールスロイスだったんですから!
で、ポーターに挨拶されて店に入るでしょ、その正面には棟方志功の版画が一面。左に曲がれば、兜とか置いてある、日本調のクラブっぽいムードで落ち着いた場所。右の螺旋階段に向かうと正面にはなにがあったと思う? ピカソの絵、本物よ! あと本物じゃなかったけれど、シャガールやドガの絵もあって、もう凄い美術館!
ショーは当時、はとバスの観光コースになってたぐらい。ミカドダンサーズとミカドオーケストラがいて、2階はダンスホールなんだけど、ショータイムになると真ん中がせり上がってきて、そこからゲストの歌手が出るのね。観光客は吹き抜けの3階からショーを観るわけ。で、ショーが終わったあとには、ヌード・ダンサーが乗ったゴンドラが3階からぐるーっと店内を回る。あんなすごい店がなんでなくなっちゃったのかしらねえ。


『ミカド』が終わったあとは、70年代ディスコの最盛期だっただけに、赤坂の『ムゲン』、六本木の『クレイジーホース』『リビエラ』といった店に通ったり、六本木の俳優座の近くにあった高級ゲイバーのショーを堪能したりと、「もう、最高の時代でした、いい時にいましたねぇ」と、赤坂の全盛時代を懐かしむ。「だから、こないだ久しぶりに赤坂を歩いたら、あまりも変わってて、涙ながしちゃった」。


和子ママと、『花と竜』(村田英雄)を熱唱中の常連さん

『ミカド』で稼いだ資金を元手に独立を果たした和子ママ。最初は浅草橋で店を開いたが、場所が悪いということで、2年後に神田に移転。30年前の開業当時は「キャバレーもそうだし、高級な料理屋もあったんだけど、みんななくなっちゃった。いまはキャバクラと、チェーンの居酒屋ばかりでしょ。もっと品があって、オトナの街だったんですけどね」と、少々寂しげ。それでもオープン当時から通ってきてくれる常連さんたちに支えられて、しかも女の子も常時4人ほども入れて、毎晩にぎやかに、華やかに営業中。カウンターとボックス席で15人ぐらいというサイズは、ふつうだとママと女の子ひとりぐらいで回すものだけれど、「それじゃあ、飲んでてもおもしろくないでしょ」と、さらり。でもお値段はしごくリーズナブル。大手町あたりの企業で働きまくってたら、毎晩通いたくなっちゃうオアシスです。


「もうスーツなんか作んないわよ。これだって
10年前ぐらいだもの。いまのスーツは嫌いで着られない」と、
ファッション・センスにもこだわりの和子ママ


スナック 和 千代田区内神田3-24-7 坂口ビルB1


『スナック 和』から歩いてすぐ、こちらもビルの地下にある『セブン』。懐かしげな書体の「7」という看板に惹かれて階段を降りてみれば、踊り場で等身大(?)のマリリン・モンローがお出迎え。さらに階段を降りて入店してみれば・・そこは往年の日活映画に出てきそうな、昭和そのものの懐かしく美しい小空間だった。


看板のデザインからして昭和
テイストあふれる『セブン』の外観


オフィスビルの階段とバーの階段が
左右を分ける。天国への階段はどっちだ

踊り場でスポットライトを浴びるマリリン

1961(昭和36)年5月25日開業、今年で開店50周年を迎えたという老舗の『セブン』。喜美子ママと息子の清英マスター、ママを手伝って20年以上というベテラン・ホステスのれい子さん、それに中国人の女の子もひとりいて、4人で現在は営業中。夕方5時半に開店して、11時半にはきっちり閉店というペースをずっと守っているが、夕方の早い時間からお客さんがどんどんやってきて、スタッフは4人とも毎晩大忙し。ボトルキープもなしで4000円から飲めるという低料金、しかも歌い放題、しかも手作りの付きだしがどんどん出てくるから、これは流行りますよねえ。


スナックというより、クラシカルなバーという雰囲気の店内

カウンターと椅子は、前の店から運んで
きたというだけあって、さすがの風格

カウンターの修理部分にも年季が滲み出ている

「あたしの生まれた年から(店名)つけたのよ」という喜美子ママは1932(昭和7)年、港区愛宕生まれ。結婚して子供をもうけたあと、離婚を機に1958(昭和33)年から水商売の道に入った。


最初はね、神田駅前にあったキャバレー『純情』でした。でもキャバレー本体じゃなくて、社長が趣味でやってた『フロリダ』っていうバーだったの。螺旋階段がついた、しゃれた店でね。そこで3年間お勤めしてたんですけど、初めてついたお客さんから「君ならできるから店をやってみないか」って突然言われて。奥さんがバーテンと飛び出しちゃったらしくて、閉めてる店があるからって。で、そのひとに月2万円、大家さんに家賃2万円、敷金に20万円払って、それだけでやらせてもらうことになったの。それでなきゃ、とうてい店なんか持つことなんてできませんでしたよ。


最初の店を持ったのが1961(昭和36)年、神田駅西口から本郷通りを結ぶ通りのひとつ、出世不動通りに面した店で12年間続けたあと、ビルの売却とともに現在の場所に移転した。それが1973(昭和48)年というから、この場所だけでもすでに38年間も営業していることになる。


木のパネルを張りめぐらせた壁際のボックス席

ちょうどオールドが入る容量の、特別あつらえのボトルが並ぶ

最初に自分の店を開く際に、店を貸してくれたお客さんが
贈ってくれたという絵が、50年経ったいまも壁に掛かっている

開店当時は高度経済成長期のまっただ中。喜美子ママの店も、オープン当初から大繁盛したそうだ——


もう、あのころは最高でしたね。もともとスナックじゃなくてバーだったんだけど、女の子を7、8人置いて、あたしもいつも着物でね。混んでくると、お客さんには店の階段のところや、いまもある居酒屋の寿々屋さんで待ってもらうんだけど、女の子はトイレにもろくに行けなくて膀胱炎になっちゃったり。
神田の飲み屋さんが全盛期だったころは、あたしも電車で帰ったことはなかったしねえ。タクシーで女の子を全員、家まで送ってくれて、自分だけ東京に戻ってくるお客さんもいたし。
最初はカラオケじゃなくてジュークボックスを置いてたんですけど、その売り上げだけで、旅行に行けたこともあったんですよ。グリーン車に乗ってね。旅費が足りない分を出してくれたお客さんもいて、一緒に旅行に行ったり。そんな時代もありました(笑)。


お手洗いはなんと石畳。「前は砂利が敷いてあったんですよ。
でも酔って砂利に足を取られるお客さんもいて、ケガしたら
いけないから、石畳にしたんです。でもトイレは、お客さんには
しゃれてるって評判がいいんですよ。だから本当は砂利の
ままにしたかったんだけどね」とママ

毎日、ママが用意してくれる充実の付きだし。
会社から直行のお客さんには、「まだ食べてないの?」と
ひと言かけてくれる心遣いがうれしい

高度経済成長からバブル崩壊まで、神田の街で企業戦士たちにずーっと付き合ってきた喜美子ママ。「でも、そういう(よかった)時代を引きずっていたら、いまは商売はできないですね」ときっぱり。バー時代から「だれでも気軽に飲める店にしようと」、低料金で楽しんでもらう営業姿勢をキープしてきた——


神田はサラリーマンの街でしょ。ひと晩に幾組かお客さんが来てくれればいいっていう商売の仕方はしたくなかったのね。そのかわり、たくさんお客さんが来てくれないと商売にならないんだけど(笑)。だからボトルも、前はキープボトル制にしてたんだけど、ボトル1本分のお金払うより、ハウスボトルを飲んでもらえばいいかなと思って、オールドがちょうど1本分入るガラスの容器を作ってもらったんですよ。


『セブン』はまた、歌上手が集まる店でもある。お客さんが曲を選びやすいように、歌手別、デュエット用の人気曲が列記された、手作りカードが用意されているし、各テーブルにはリクエスト用のメモとペンが備え付けてある。カラオケ主体のお客さんが多い店で見かけるシステムだが、リモコンでお客さんがやたらと曲を予約してしまわないための工夫だ。


ものすごく年季の入った、手書きのカラオケ・リスト。
歌手別、お客さん別など、いろんなセットが用意されている

「カードは店にしてみれば、楽でいいんですよ。いつも
来るお客さんもそうだけど、なにを歌おうかなって考えてる
お客さんにも、とりあえず参考までにどうぞって感じでね」

カラオケ入れすぎ防止のため、リモコンにかわって
テーブルごとに置かれたリクエスト記入セット

ママは着物が大好き、かつては一年中着物姿で接客していたが、
ゴルフを始めたのを契機に、着替える手間もあって洋服で
接客するように。ちなみにゴルフを始めた間もないころ、
1990(平成2)年にホールインワンを達成している

1932(昭和7)年生まれという年齢が信じられない、
若々しさあふれた喜美子ママと、ベテラン・ホステスのれい子さん(カウンター)。
ちなみにママの健康法は「豚肉と青魚は順繰りで毎日食べますね。
そして食べたあとは必ず、お酢を水で割って飲んで、体のなかの
脂を流すんです。これをみんなにも勧めているんですよ」

ママを手伝うようになって、すでに35年という
息子の清英マスターと、喜美子ママ

最初に『セブン』に行ったときのこと。店内はすでにほぼ満席状態だったが、ほとんどのお客さんが帽子を被って飲んだり歌ったりしているのに驚いていると、ママさんに「あんたたちも被りな」とカウボーイハットみたいなのを渡されて、さらに驚いた。聞いてみたら帽子はママさんのコレクションだそうで、「最初は遊びで買ったんだけど、お客さんが喜んでくれるから、集めるようになったの」。そんなアットホームな雰囲気で、こんなに低料金で、しかも半世紀の歴史があって。しかもネットとかにはまったく紹介されずに。スナックって、ほんとに入ってみなくちゃわからないですねえ。




セブン 千代田区内神田3-10-6


『和』も『セブン』も神田きっての老舗スナックだが、神田駅ガード下の奥まった一角にある『スナック るり』は、その両店をさらに上回る1947(昭和22)年開店、今年で創業64年!という歴史的な名店である。そしてガード下の薄暗い通路を分け入り、通路を隔てて営業する『次郎長寿司』のおやじさんと客の視線を浴びながら入店しなくてはならないという、そのアプローチからしてスナック上級者でなくてはなかなかドアを押せない、スナック界の高峰でもある。


西口ガード下、2階にカラオケボックスが入る一角に
『スナック るり』へのエントランスがある

「呑みネイ 喰いネイ」の次郎長寿司と並んで、
「此の奥→」にあるのが『るり』。この通路を
躊躇なく入っていけるのは、かなりの上級者だ

通りに面したガード下の入口を入ると、細い通路の片側に寿司屋があり、反対側にスナックがある。次郎長寿司の大将・梶山健一さんは『スナック るり』のさちこママのご主人。そしてご主人の寿司屋は息子が手伝い、奥さんのスナックは娘が手伝う。さらに! 寿司屋とスナックを終戦後すぐに開いたのは、寿司屋の健一さんのお父さんとお母さん。なんと、親子3代でガード下の寿司屋とスナックを守りつづける、奇跡的な家族経営なのだ。


『スナック るり』はおそらく3畳ほど。通路も狭いため、普通のドアでなく折りたたみ式のドアを開けると、S字型のカウンターがある。スツールは6席。補助のパイプ椅子を使っても7、8人が限界だろう。でも、ここは立派なスナックだ。カラオケは歌い放題だし、お腹が空いたら通路の向かいの寿司屋になんでも注文できるし、ガード下だから駅まで歩いて1分足らず。こんな便利な店、あるでしょうか。


通路のいちばん奥、朱色のドアが『るり』の入口。
写真右側には次郎長寿司のカウンターがある。寿司屋の
VIPルーム的な造りと言えるかも

『るり』という店名の由来は、終戦後に満州から
引き揚げてきた浅丘ルリ子とご主人が
小学校の同級生だったからという

スペースの関係上、折りたたみ式のドアが。
開け閉めするのには、ちょっとしたコツが要求される

『るり』のさちこママが作ってくれる特濃ウーロンハイをすすりながら、お店の歴史をうかがった——


ここは(寿司屋もスナックも)昭和22年からやってるっていうから、もう60年以上は完全に越えてるよね。もともと先代が寿司職人で、ほかの店で修業してから、ここで店を構えたんだけど、終戦直後でしょ。こっちも当時はスナックじゃなくてバーだったけど、ドアもなくて、よしず張りだったって聞いたわよ。
最初は寿司屋が先だったみたいで、こっちの店はおバアちゃん(お義母さんをママはこう呼ぶ)がやっていたの。そのときオッサン(ご主人をママはこう呼ぶ)も、20歳前後でしょ、手伝いでバーテンをやってたみたい。それから本格的に寿司のほうに行ったのね。


S字型のカウンターが印象的な店内。カウンターは6人で満席

「わたしは肝臓が強いから」というママの
つくってくれる濃厚ウーロンハイで乾杯!

バーの時代はレコードプレイヤーを置いて、
ドーナツ盤をかけていたという

いっぽう、さちこママは青森出身で、40年ほど前に上京後、ご主人と知り合い結婚。その後、子育てを終えてから40歳でママを引き継ぎ、早くも25年の月日が経ったという。


もともとはおバアちゃんと女の子でやってて、おバアちゃんが病気で亡くなってからは、女の子がひとりでがんばってくれてたんだけど、彼女も辞めるっていうから、店自体もやめようという話になったんだけどね。私は(ママ業を)やるつもりはさらさらなかったんだけど、お酒が好きだから、ついでに飲めればいいやって……それが運の尽き(笑)。もちろんシロウトだったけど、このへん飲み屋さんが多くて遊びにきていたから、お酒が好きだと飲み屋も好きになるでしょ。だから勝手知ったるっていうか、抵抗感なくできたのね。


通信カラオケになる前は、いま機械が置いてある場所に、
レーザーカラオケのセットを置いていたらしい。
あんな図体の機械、入ったんでしょうか!?

ママの腰の後ろの壁は、店の歴史を
物語る絶妙の擦り切れぐあい

昔は寿司屋だって7時にはもう満員だったけど、最近は神田も不景気で落ち目だからねえ・・と嘆くさちこママ。現在では娘さんと1日おきにカウンターに立つ生活で、店に出るのは週3回。残りの日は「3年くらい前に来た犬の世話」で忙しい毎日だとか。


子猫の時計がやけに懐かしい

さりげなく飾られた色紙は鳥羽一郎!

通路を挟んだお向かいから届く、握りたての
寿司をつまみながら、飲んで歌える幸福!

カウンターの隅に愛犬の写真。「前は私と娘の2人で(店を)
やってたんだけど、3年くらい前に犬が家にきてから、世話が
たいへんで交代で出るようなったの。試しに店に(犬を)
連れてきたこともあったんだけど、知らないひとを見ると
すごく吠えるから、これは無理だと思って。でも、65歳にも
なれば疲れも取れないし体がキツいからね、1日おきぐらいがちょうどいいの」

昭和遺産の店の壁には、なぜかEXILE(エグザイル)のグラビアの数々。
ママの娘さんがヴォーカルのTAKAHIROファンなのだとか。
「孫もTAKAHIROが好きなのよ」とママ

創業当時からまったく改造していないという店内は、ガード下という特殊なアプローチともあいまって、昭和そのもの。「この長屋もヒドくなったなあ〜、とか言いながら入ってくるお客さんもいるのよ」とママは笑うが、見かけによらず店舗の入れかわりはけっこうあるそうで、昔から変わらず残っているのは『次郎長寿司』と『るり』の2店舗のみ。「若い子はまず来ないねぇ」ということですが、こんなに歴史的な店、スナック好きなら行かないわけにいかないでしょう。見かけはちょっと難易度高いけれど、もちろんフリーの一見客も優しく歓迎してくれますから(『次郎長寿司』ともども)、ご心配なく!



スナック るり 千代田区鍛冶町2-14-8