2011年7月28日木曜日

東京スナック飲みある記


閉ざされたドアから漏れ聞こえるカラオケの音、暗がりにしゃがんで携帯電話してるホステス、おこぼれを漁るネコ・・。東京がひとつの宇宙だとすれば、スナック街はひとつの銀河系だ。酒がこぼれ、歌が流れ、今夜もたくさんの人生がはじけるだろう場所。


東京23区に、23のスナック街を見つけて飲み歩く旅。毎週チドリ足でお送りします。よろしくお付き合いを!

第22夜:渋谷区・百軒店

渋谷でオトナが遊ぶのって難しい、といつも思う。買い物するにも店が若者志向すぎるし、たまに映画やコンサートで道玄坂やBunkamuraあたりに出かけても、そのあと静かにご飯食べたり、しっとり飲んだりする店が、ないわけではないけれど、街のサイズに較べてあまりにも少ない。いったいいつから、渋谷はこんなに若者だらけの街になってしまったのだろう。

「都市再生本部」という組織をご存じだろうか。「環境、防災、国際化等の観点から都市の再生を目指す21世紀型都市再生プロジェクトの推進や土地の有効利用等都市の再生に関する施策を総合的かつ強力に推進するため」、2001(平成13)年に設立された、内閣官房府に属する組織である(本部長・内閣総理大臣)。意地悪な言い方をすれば、政府が率先して、古ぼけた街なみをバンバンぶち壊して“文化的で国際的な”21世紀っぽい街に作りかえましょうという、一大ディベロッパー支援機構である。

その都市再生本部が、「ここは特に急いでがっつり再開発しないと!」と決めたのが「都市再生緊急整備地域」。東京では有楽町駅周辺、秋葉原・神田地域・新橋駅周辺、大崎駅周辺など8地域が指定されているが、渋谷駅周辺もそのひとつ。地域面積約139ヘクタール、といってもピンと来ないが、青山側は青山学院大学の手前まで、道玄坂側は旧山手通りまで、北はNHKの手前まで、南は代官山の、東横線の高架が横切るあたりまでという、広大なエリアだ。

整備完了目標を2026(平成38)年!に掲げた、これから15年をかけた大改造計画が、渋谷駅周辺ではすでに動き出している。東口の東急文化会館跡に建設中の「渋谷ヒカリエ」は来年(2012)年に開業予定だし、同年中には東急東横線ホームが地下化され、東京メトロ副都心線と相互直通運転を開始する。いま東と西に建物が分かれている渋谷駅は、近い将来に線路を横断するひとつの建物として新設統合されるらしい。

1955(昭和30)年ごろの道玄坂下の交差点付近。写真中央の洋品店
「三丸」の場所に現在建っているのが109である
写真提供/白根記念渋谷区郷土博物館・文学館

おなじみ2011年現在の渋谷駅前、道玄坂下交差点付近

そういう激動期に突入しつつある渋谷駅周辺で、もっとも昭和的な景観を、かろうじてだが残しているのが、道玄坂を上がった右側の「百軒店」(ひゃっけんだな)。道玄坂方面からShibuya O-EAST、O-WESTなどのライブハウスやBunkamuraへの抜け道として機能するほかは、ラブホテルか風俗店に行くひとしか馴染みのない、渋谷駅周辺でもいちばん微妙なエリアかもしれない。

もともと百軒店は中川伯爵邸跡地に建設された“ショッピングセンター”だった。中川伯爵は、豊後(現在の大分県)の岡藩主だった中川家の最後の藩主・中川久成。その邸宅跡地を1922(大正11)年ごろに買い取ったのが堤康次郎率いる箱根土地(のちの西武グループ)だった。

堤康次郎は百軒店を翌1923(大正12)年に住宅分譲地として売り出すが、その直後に関東大震災に見舞われて計画変更。壊滅状態となった東京下町の名店を移転させた「第二の浅草」を目指して、精養軒、山野楽器店、資生堂などが出店して大変な賑わいをみせたというが、2、3年のちに大店が下町に戻ったあとは、小料理屋や喫茶店、カフェー、映画館などが林立し、道玄坂から百軒店は渋谷きっての繁華街となったのだった。

映画館「テアトル渋谷」のアーチを掲げた百軒店道玄坂側入口の風景。
写真に写る上映作品(『凸凹宝島騒動』)の日本公開年が1947(昭和22)年
12月であることから、翌年1月に撮影されたと推察される
写真提供/東京テアトル株式会社

こちら現在の百軒店道玄坂側入口。ほんとに同じ場所でしょうか!

1936(昭和11)年、百軒店入口付近から撮影された道玄坂の夜景。
道玄坂の商店街は大正時代の半ばから発展していったが、百軒店を含む
外周のカフェー街、花柳界、映画館の存在はもとより、夜ごと通りに
出店された夜店の活気もあって、盛り場としての性格も併せ持つ商店街となった
写真提供/白根記念渋谷区郷土博物館・文学館

ほぼ同じ場所から、いまの道玄坂から渋谷駅方面を見たところ

1939(昭和14)年に発行された『日本国勢総欖』には、そんな百軒店の賑わいがこんなふうに描かれている——

殊に大震災の余生を駆つて第二の浅草たるべく円山の芸妓町と並んで出現した百軒店は当初の期待こそ裏切つたが、どうやらその変態的発展で渋谷名物の一つたることは失はない (出典:『新修 渋谷区史・下巻』)

百軒店を通り抜ければ、そのすぐ先は京王井の頭線・神泉駅に至る円山町。東京有数の三業地(芸妓置屋、待合、料亭の営業が許可された花街)で、最盛期の大正時代には芸妓400人を擁する一大歓楽街だったそうで、バブル前までは立派な黒塀の料亭が建ち並んでいた覚えがあるが、バブル崩壊後に次々と閉店、ラブホテル街に姿を変えてしまう。そういえば1997(平成9)年に東電OLが殺されたのも、その円山町のアパートの一室だった。

百軒店には一時3館もの映画館(左から「テアトルハイツ」「テアトルSS」
「テアトル渋谷」)があり、渋谷随一の娯楽の街として栄えていた
写真提供/東京テアトル株式会社

1軒も映画館がなくなって、別の娯楽の街になってしまった通り

「昔の百軒店は、いまとちがって趣のある、落ち着いた飲食街でしたよ」と話してくれたのは、百軒店の道玄坂側入口近くで1968(昭和43)年から営業を続ける『玉川寿司』の店主・山賀守さん。「開業当時は道玄坂にもビルなんて映画館の渋谷東宝会館(現在のTOHOシネマズ渋谷)と、月賦百貨店の緑屋(現在の渋谷プライム館)、全部で3、4軒ぐらいしかなくて、百軒店のなかも含めてほとんどが2階建ての木造家屋でした」という時代から暖簾を掲げる、百軒店でも有数の老舗である。

円山町から流れてくるお客さんもいたし、百軒店には学生も多かったらしい。「うちの店でも、あの当時で200円ぐらいの寿司を4人で2人前しか頼まなくて、店の2階で延々と討論してました」と、山賀さんは古き良き時代を懐かしむが、そんな客層を反映したのか百軒店はかつて音楽系の店がひしめくことでも知られていた。『スイング』『DIG』『ありんこ』『ブラック・ホーク』といった、一世を風靡したジャズ喫茶の数々。そしていまだに営業中のロック喫茶『BYG』、その横で別格の存在感をいまだに誇示する『名曲喫茶ライオン』・・。

現在、高層マンションのスクエア渋谷が建っている場所には、かつて
「田中マーケット」と呼ばれる、小さなバーや小料理屋が密集する一角だった。
写真は2002(平成14)年に撮影した解体される前の様子
写真提供/イシワタフミアキ

田中マーケットがあった場所に建っている
高層マンション・スクエア渋谷

そんな百軒店がいまのような状態になってしまったのは、山賀さんによれば「平成に入ってから」。昔からの店が姿を消したあとに、あっというまに風俗店がはびこって、「平成9年から平成16年が最盛期でしたねえ」。もちろん地域住民も、そんなピンク攻勢に手をこまねいていたわけではなく、2004(平成16)年の風営法の改正に合わせて、百軒店のなかに小さな公園(百軒店児童遊園地)を作ることで、ラブホテルなどがそれ以上建たないように規制をかけ、風俗系、ゲーム店も少しずつ減っているという。しかしビルの大家さんにすれば、「スナックとかの飲食店に店舗を貸すよりも、ピンク系に貸したほうが3倍も家賃に差が出ますから、商売ですから背に腹は変えられませんし、どうしてもそちらに貸すようになるんですね」ということで、イメージチェンジもなかなか難しい。

こちらは百軒店へのもうひとつのアプローチ
となる、東急本店側からの入口

一時営業を停止していたが、いまは復活を
遂げているストリップ劇場『道頓堀劇場』

風俗店、ラブホテルと民家が同居する、奇妙な
風景の中をいちゃいちゃカップルが次々と・・

かつては江戸城内の守り神でもあった、由緒ある千代田稲荷神社。
宮益坂にあったのが、関東大震災を機に百軒店に移され、終戦後
から現在の地にあり、住民の拠り所となっている・・が、すぐ隣が
ラブホテルというのも、いかにも百軒店らしいというか


風営法改正にあわせて作られた百軒店児童遊園地。子供が
遊ぶ公園というよりも、オトナが悪い遊びをしないための公園だった!

公園の中はベンチがひとつ、鉄棒がひとつ
だけのウルトラ・ミニマルなつくり

道玄坂から百軒店の、新装なった派手なゲートをくぐれば、いきなりストリップ『道頓堀劇場』のけばけばしいネオン(コント赤信号、ゆーとぴあ、ダチョウ倶楽部など、ここから巣立っていったコメディアンも多いのだが)。看板も出していないドアが並ぶ風俗ビル。たった2、300メートル四方に林立する30数軒のラブホテル(おとなり円山町にはさらに70軒あまりがあるというから、両方合わせて約100軒! しかもそのすぐとなりは東京で一、二を争う超高級住宅地・松濤なのに)。そして道ばたで鋭い目を光らせる客引きの男たち・・。気軽に歩き回れる雰囲気とはかなり言いにくいものがあるが、そんな百軒店にも、外の喧噪がウソのような、落ち着いた渋好みのスナックが実は何軒も存在する。今夜はその中から、創業50年(!)を超える隠れ名店を2軒、ハシゴしてみよう。

来週は23区スナックめぐりの最終回、千代田区神田駅周辺を飲み歩きます。

道玄坂側の入口から百軒店に入って、左側に曲がった奥、ビルの地下にある『パブ グリーン』は、知らぬものにとって入りやすい店とは言えないかもしれない。しかしこの『グリーン』、開業が1958(昭和33)年、今年でなんと53年という超老舗店なのだ。

ビルの地下にある『グリーン』へのエントランス

ロゴがかわいらしい。店名の由来は、マスターが
ゴルフ好きだからではなく、「緑色が好きだから」


おそるおそる階段を降りてみれば、そこは温かい雰囲気のカウンターとソファ席が配置された、いかにも居心地よさげなスナック。「わたし、酒は一滴も飲みませんから!」という古泉文洋マスターは、1939(昭和14)年山梨県甲府市生まれ。70歳を超える年齢にはとうてい見えない若々しさにまず驚き、周囲が風俗店だらけの場所に、こんなオトナっぽい店があって、それをいままで知らなかったことにまた驚く。

ドアを開けてみれば、エンジ色を基調と
した落ち着いたインテリアが広がる


甲府で中学・高校を卒業した古泉マスターが、東京に出て自分の店を構えたのは19歳のとき・・って、お酒飲めないと言うより、飲んじゃいけない年齢なんですけど。



「うちは医者の家系で、それに反発もあったと思うんですが、まあ店を始めるといっても、夕方に開けて夜には終わるから楽だろう、ぐらいの気持ちで強い意志じゃなかったんですよ」と、意外に気軽な動機で開店。どこかの店で修行して、仕事を覚え、資金も貯めて自分の店を持つ、という順番がふつうだが、「日本バーテンダー協会の幹事長と知り合いだったんですが、『資金があるんだったら、修業なんかしないで、すぐに自分で店をやったほうがいい』って言われて、ベテランのバーデンダーを紹介されたんです。そのひとに3ヶ月の契約で来てもらったのですが、(賃金が)高くて払いきれないから、1ヶ月で仕事を覚えて、給料に色をつけて辞めてもらって、2ヶ月目からは自分でやるようになったんです」。


最初に開いた店は、百軒店と道玄坂を挟んで反対側の大和田町(現・道玄坂1丁目)。当時はもちろん「スナック」という業態すら存在しない時代だったから、初代『グリーン』も形態はスタンドバー。しかしさすがに最初の3年間は苦労続きだったそうで、「品川のダイハツで車のセールスをやりながら、会社から給料をもらって、自分が食べるぶんだけは確保して、3年ぐらいなんとかがんばった末に、岩戸景気(高度経済成長時代の好景気時期のひとつ)の影響もあったんでしょうが、突如として売り上げが3倍ぐらいなったんです。それからはバブルが終わるまで、ずーっと上昇気流でしたね」。


アンプ、マイクスタンドとゴルフセットが置かれた一角。
このコーナーでカントリー&ウェスタンのライブも開いている


道玄坂の店が1971(昭和46)年に立ち退きになって、『グリーン』は百軒店に移転。いまスクエア渋谷という高層マンションが建っている、Shibuya O-EASTに近い場所に数年前まであった飲み屋街「田中マーケット」に店を構え、これまた「お客さんが座りきれなくてうしろに全員立って、それでも店に入れないから、外で飲んでもらって・・というのは、いまの店もそうですが、当時から料金をめちゃくちゃ安くしていたんですね。だからいままで続けてこられたんじゃないかな」という繁盛ぶり。そして田中マーケットから1981(昭和56)年には現在の場所に、ふたたび移転。ここが3代目ということになるが、「最初に大和田町に店を出したころから来てくれてる常連さんもいる」というから、50年以上のお付き合い! もはや、家族のようなもんです。

メニューがある壁に掲げられた「夢」の書は
マスターの自筆。勢いにあふれている

グラスが並ぶカウンターをよく見ると、「相談料は30分・5000円いただきます」
なんてシールが。酒を飲めない客が、マスターに相談するためにカウンター席を
“無料”で長い時間独占するため、お酒を飲む客が怒って貼ったそう。
「でもこれ、遊びですよ。お笑い」とマスター

開店当初に車のセールスマンをやって店を支えたのを皮切りに、古泉マスターは昼間の仕事も今日まで欠かしたことがなかったという。電気工事、引越しセンターなどなど、さまざまな職種に就いてきたが、現在はもっぱら「健体師」として腕をふるっている。

「親父がね、『お前バカだから、なにかやっておいたほうがいい』って言うんで(笑)、20代のころから始めたんです」という整体術を、自分なりに改良して編み出した「健体術」は、クチコミで評判を呼び、いまでは大企業のトップから代議士まで、政財界の重鎮たちを数多く顧客に持つという人気ぶりである。基本的には依頼主の家に赴いて施術するそうで、カウンターに掛けられたカレンダーには予約がびっしり書き込まれてあったが、「頼むからやって!」と駆け込んでくる客もいるそうで、店の一角にはベニヤ板を敷いた施術コーナーがちゃんと作ってある。「あんたはちょっと太りすぎだねえ、ちょっとそこに横になってごらん」と言われて、ほんの少しだけやってもらったら、ものすごく痛かったけれど、肩凝りも背中の重い感じも、いきなり楽になってびっくり。揉み込まれて、それから飲んだらさぞ酒もおいしかろうと思うけど、「そうするとすごく酒の回りが早くて、2、3杯で酔っぱらっちゃうよ」と注意されました。なるほどねえ。

FAXの上に立てられたマスターの、カラフルなジャケットを
着用した写真は、弟さんがプロのカメラマンで、その弟子の方が
撮影したもの。「豪華なスーツなんですよ。ただ、僕のものは
棒ネクタイだけ。あとは全部もらいもんなんです」

「こんなことやってるのは、お金じゃないの。お金なんて、生活できるだけあればいいんだから。僕は毎日、楽しんでるからね。遊ぶために生きてるんだから。仕事だと思っていたら、とっくに潰れてますよ」と人生哲学を語る古泉マスターは、また無類の趣味人でもある。

水切りカゴの上にはミッキー・カーティスの写真が
額入りで。幅広い交友関係を物語っている

店内でのライブの様子。演奏しているのは、戦後の日本に
カントリー&ウェスタンを最初に広めた大御所・黒田美治(びじ)。
「(黒田さんが)亡くなって10年か11年になるのかな。黒田さんには
可愛がられてね、40年間くらい“人生の教育”を受けて
いて、それがいまでも活かされています」

ゴルフ歴も半世紀近い古泉マスター。39歳のとき(左)と、
72歳のいまのスイングを捉えた写真が並べてあった

カントリー&ウェスタンは、日本のトップ・プレイヤーたちと個人的に親交があり、店内でもライブを催しているぐらいだし、時計は「もう50年ぐらい、腕時計に取り憑かれてましたねえ、ロレックスだって、何本買ったかわからない」というマニア。車は「ポルシェ911S、キャデラック、ビュイック・パークアベニューにフォード・サンダーバード・・ヨーロッパ、アメリカ、日本、それにオーストラリアの車まで、取りあえず6ヶ国の車は乗りました」。いまは「自動車よりもバイク」だそうで、10台以上も乗り換えた末に、いまは大排気量スクーターのヤマハTMAXを駆って、埼玉県川口市の自宅からバイク通勤。そして現在も楽しんでいるゴルフは「始めて47〜8年になるでしょうか」。


自分よりずーっと年下のゴルフ仲間とラウンドすることが多いそうで、「こないだもキャディさんに『スゴい!』って言われて、腕のことかと思ったら、『年寄り扱いされないで、30代の若い人と遊んでもらえるなんて、感謝しなきゃいけませんよ』だって」と笑う。お金じゃなくて、毎日をめいっぱい楽しんで、「お客さんはまわりが風俗ばっかりで来にくいとか言うけど、僕は周囲のこと、世間のこと、いっさい気にしたことないんです」という、マイウェイを貫くスタイル。これが若さの秘訣なのかもしれないですね!

お歳がとうてい信じられない、どこまでもポジティブでエネルギッシュな古泉マスター

パブ グリーン 渋谷区道玄坂2-18-14


古き良き百軒店の象徴とも言える名曲喫茶ライオン』と、細い路地を挟んで向かいあうのが『みにぱぶ ながさき』。店名のとおり、長崎出身の中川徳穂マスターと知子ママが、1959(昭和34)年に開いた、ここも創業半世紀を超す名店だ。


名曲喫茶ライオン、BYGと名店が
並ぶ通りにある『ながさき』

1959(昭和34)年の開店以来、この場所で
営業を続けてきた。『バーながさき』から
『みにぱぶ』になったのは13〜14年前のこと


もともと水商売の世界で働きながら、自分の店を持とうとがんばっていた徳穂マスターと、この近所で別の仕事に就いていた知子ママが結婚、ママは仕事を退職して、ふたりで店を構えることになった。「わたしはズブのシロウトでしょ、店なんてやりたくなかったんですけど、まあしょうがないかと(笑)」とママは当時を懐かしむが、店を開いた当時は「すでにこのへんは飲み屋がたくさんあって、昔からの店も多かったですから、あんな若造になにができるって、ほんとに大変でした」。

これぞ昭和のスナック! と言いたい正調スタイル


ちなみにそのころ、渋谷でいちばんの繁華街といえば百軒店のエリアであって、「いまはスペイン坂って言ってるところ、あるでしょ。あそこなんかキュウリやナスがなってる畑だったんですよ。道玄坂も、通りの裏には大きな畑がありましたから」。ママが店を開くちょっと前までは、進駐軍の兵隊が飲みに来る、専用の店も何軒もあったそうで、たった50年でここまで激変するもんでしょうか。 


奥行きの広い店内は、ボックス席が中心で寛げる

『ながさき』のドアを開けて、まずびっくりするのは「52年前から基本的に変わってません」という、昭和の香り漂うインテリアだが、その次にびっくりするのが「いらっしゃいませ〜」と出迎えてくれる、あでやかな女性陣。高級熟女パブみたいで(すいません!)、ドキドキしてしまうのですが・・「うちはもともと、長崎から女学校を卒業した女の子を5、6人、住み込みで働いてもらってまして、家族みたいな雰囲気なんですよ」と知子ママ。なのでホステスさんたちもベテラン揃い。今夜の写真に写ってくれたレディーたちも、勤続45年、33年、いちばん若手ですら13年という、驚くべき勤続年数! 「やっぱりね、ママとマスターの人柄が良くないといられません。長崎からなんにも知らないで出てきて、すくすくと育てられたって感じです」と、いちばんのベテラン・スタッフである和子さんは話してくれたが、ほんとに、よほど居心地いいんでしょうねえ。


金色の額に納められたボッティチェルリの
ヴィーナスが、なぜかよく似合う店内

『玉川寿司』のご主人が教えてくれたとおり、『ながさき』にもかつては学生が多く遊びに来ていてそうで、「早稲田、慶応、青山学院、立教・・都内の主な大学の生徒さんたちが、みんな学生服の姿のまま来てくれましたから、詰め襟のバッジを見るだけで、どこの大学かわかるようになっちゃいました」とママ。付近のジャズ喫茶から流れてきたり、住み込みの女の子目当ての学生も多かったらしく、「ジュークボックスを置いてましたから、夕方なると学生さんたちの遊び場になってました。店に出る前の女の子から、『いまからお風呂に行ってくるから待っててね』って言われると、みんな帰ってくるまで待っていたり(笑)」と、古き良き時代を思い出してくれた。


店のそこここに飾られた生花が、
女性らしさを醸し出す

百軒店がこれ以上の風俗街になるのを防ぐために、児童公園が作られた経緯を前に記したが、その先頭に立って尽力したのが、百軒店の真ん中にある千代田稲荷神社の総代も務める徳穂マスター(現在は夜遅めに出勤)。その努力の甲斐あって、風俗店の増加は抑えられているが、『ながさき』と同じころからの店は、もうほとんどが店を閉めてしまったそう。「わたしたちも、何回も辞めようかと思いましたけど、ここまできたんだから、やっぱりやるしかないんじゃないかって・・でも、どんなに泣いたかわかりませんよ」と、いま百軒店でオトナの店を続ける難しさを語る。


モニターの脇にはステンドグラスの卓上ランプ

カラオケを盛り上げる小物も完備

奥の壁に掛けられている、なんとも不思議な「亀と富士山」の絵。
「知り合いがくれたの、幸運が来るからって・・」とママ。ほしいです!

「小のほうだけでもちゃんと流れるんだから!」
と、ガムテープで手作り節水運動中

『ながさき』がある通りにも、若いホステスを置いたキャバクラ系の店がひしめいているが、「たとえて言えば、“ハンバーグ屋”がびっしりあるなかで、ここだけが“お茶漬け屋”なの」とママ。そうです、それが中高年のオアシスなんです! なにかの集まりのあとで、「そういえば昔よく行った『ながさき』に行ってみよう」と立ち寄ってくれる、年配のお客さんもけっこういるそうで、その気持ち、わかります。ドアを押せば店の雰囲気も、迎えてくれるママさんや女の子たちも、半世紀前から時が止まったように変わらぬまま。それもこんな場所で。ここはもう、ひとつの小さな奇跡です。


『ながさき』の豪奢なレディたち。知子ママを真ん中にして、
左が勤続13年の千秋さん、右奥が勤続45年!の和子さん、
右端が勤続33年の明美さん

みにぱぶ ながさき 渋谷区道玄坂2-20-5