2011年5月26日木曜日

東京スナック飲みある記


閉ざされたドアから漏れ聞こえるカラオケの音、暗がりにしゃがんで携帯電話してるホステス、おこぼれを漁るネコ・・。東京がひとつの宇宙だとすれば、スナック街はひとつの銀河系だ。酒がこぼれ、歌が流れ、今夜もたくさんの人生がはじけるだろう場所。

東京23区に、23のスナック街を見つけて飲み歩く旅。毎週チドリ足でお送りします。よろしくお付き合いを!

第15夜:板橋区・大山駅北口飲食街

池袋からわずか3つめの駅。所要時間5分、料金140円。しかし「大山」と聞いて、「ああ、あそこね」と瞬時に返せるひとは多くないだろう。南新宿、神泉、椎名町、北品川・・・私鉄の始発駅からすぐの、急行が止まらない駅にはいつもかすかな「置いていかれた感」が漂っているものだが、板橋区大山駅もまたしかり。大山駅から川越街道にいたる600メートルに、約200店舗を擁する「ハッピーロード大山商店街」という有名な商店街がありながら、東武東上線の沿線住民以外には、いまひとつ知名度は高くない。もっともつい最近では、『焼肉酒家えびす』の食中毒事件で、食肉卸業者『大和屋商店』が大山にあることで、マスコミが大挙するというアクシデントもあったそうだが。

大山駅上空(撮影年不明)。1914(大正3)年5月に東上鉄道
(現・東武東上線)の池袋・川越間が開通。近代化が遅れていた
同エリアだったが、以降、近郊都市として宅地化されていった。
当初は下板橋駅、上板橋駅、成増駅で開業、大山駅は周辺の人口増加に
ともなって、開通から17年後の1931(昭和6)年8月に開業された
写真提供/板橋区公文書館

江戸時代には中山道の玄関口として、東海道の品川、甲州街道の内藤新宿、日光・奥州街道の千住と並んで「江戸四宿」のひとつとして知られた板橋宿。大山も川越方面と江戸を結ぶ中継点として栄えてきた。終戦直後も川越方面にイモや米を求める買い出しで賑わい、一時は100軒あまりの露店がひしめく、大規模な闇市があったという。

1960(昭和35)年当時の「大山銀座美観街」。戦後、東武東上線沿線に
誕生した青空マーケット(闇市)のなかでも大山の規模は大きく、
100軒ほどの露店があった。その後、「大山銀座通り」として
区内最大の商店街に成長、1956(昭和31)年に「大山銀座美観街」と
名称を変更する。1978(昭和53)年に全長570メートルのアーケードを
設けた際に、「ハッピーロード大山」とネーミングされた
写真提供/板橋区公文書館

現在でも駅の南口(ハッピーロード商店街側)の、中板橋方向の線路沿いには「しょんべん横丁」と称される飲食街が、戦後の雰囲気をそのまま残して営業中だが(正式名称は「すずらん通り」)、スナックが多いのは線路を挟んだ反対側、「遊座大山商店街」と呼ばれる商店街の裏手に広がる飲食街だ。

大山には「大山東映劇場」「大山文化劇場」「板橋ピース映画劇場」「板橋名画座」
「板橋劇場」と、封切館からポルノ映画館まで5館もの映画館があった。
写真は1945(昭和20)年ごろの大山の映画館の様子
写真提供/板橋区公文書館

踏切越しに眺めた、現在の遊座大山商店街。
ハッピーロードと、線路を挟んで対面する

線路と並行に、商店街の通りと都道420号を結ぶ路地が何本も通っていて、線路脇からそれぞれ「ゼロ番街」「一番街」「二番街」「三番街」と、順番に名がついている。街路名の看板が掲げられているわけではないから、余所者には通じないネーミングだが、この地で長く営業するスナックのママたちに聞いてみると、かつてはこのあたりが大山を代表する飲み屋街で、最初にできた一番街と二番街を中心にバーがひしめきあい、毎晩のように酔っぱらいが大げんかしたり、道に寝転がっていたり、ヤクザが肩で風を切ってのし歩いていたり、という板橋区きってのワイルドサイドだったらしい。

ちなみに1950年代のこのあたりを描写した文章に、こんなのもあった——「駅をとりまく一かくはなんといってもこの通りの中心街で、朝からおそくまで頭上では広告放送がワメいているし、カストリ横丁らしきマーケットあり、紅いルージュの街の姫君もたむろしていようというご多分にもれぬ戦後盛り場風景であるが、最近は次第におちつきをとりもどして独自のニュアンスが生まれてきたのは、池袋まで電車でわずか五分という足の便が、かえって一流盛り場への追随と模倣を脱ぎすてはじめたためでもあろうか。」(昭和25年『板橋区政ニュース 33号』より)

ハッピーロードのようにアーケードで覆われていないぶん、
昔ながらの商店街の雰囲気が残っているようだ

北口飲食街のエントランス。
ここは線路すぐ脇の通称「ゼロ番街」

もちろん、そんな栄華(?)も今は昔。かつて大山だけで5軒あったという映画館も、もうひとつも残っていないし、ゼロ〜三番街の飲食店も次々にマンションなどに建て替えられ、全盛期の半分も残っていない状態だ。
ここもまた、まるごと再開発で高層ビルになってしまう前に、昔日の面影を探しながら、今夜は二番街の老舗3店を飲み歩いてみたい。

来週は荒川区日暮里を飲み歩きます。

商店街から二番街への入口あたり。タイ料理、
ネパール料理など、エスニックの店もちらほら

二番街を奥に進むと、往時を彷彿と
させるスナック街が姿をあらわす

「占いとマッサージの店」なんて、
ドキドキするハイブリッドな店もあり

今夜の1軒目はグリーンの看板と、その脇に置かれた手書きのキャッチコピーが目を惹く『スナック 復活』から。「飲み放題1時間1500円、カラオケ1曲100円、ゾロメ出た方ボトル1本進呈」という、魅力的すぎる価格設定。そして外壁に貼られた料金表には、「絵も有、歌も有、花も有、飾る言葉も。そんなスナック 復活です」という、これまた入ってみずにはいられない売り文句。期待が高まります・・。

スナックには珍しい店名がまず目を惹く『復活』

ドア脇の貼り紙エリアで、とりあえず情報収集

奔放な手書きの料金表、リーズナブルすぎるお値段にびっくり

そして、いざドアを押してみると、そこは外観からは想像できない、奥に深い店内。そして壁には絵、絵、絵! カウンターには花、花、花! なんだかスナックというより、画廊喫茶みたいな雰囲気だ。

入ったとたんに展開する、壁のギャラリー・エリア


『復活』の千代子ママは、もともと同じ板橋区の蓮根で、お母さんが居酒屋をやっていたという板橋っ子。そのうちお店を手伝うようになり、一時は妹さんとふたりして高円寺にアクセサリー店を開くがうまくゆかず、この大山で物件を探して店をひらいたのが1978(昭和53)年のこと。今年が創業33年、いま二番街で営業を続ける、いちばんの老舗スナックだ。

ママさんお手製の活け花が、あでやかさを演出する


かつてビデオのベータ対VHSのように、レーザーディスクと
覇権を争ったVHDのカラオケ・システムをカウンター脇に発見!
「(ディスクが)1枚で1万6000円もしたんですよ。
3年ローンでようやく返済できたと思ったら、これ(通信カラオケ)に
なったでしょ。やんなっちゃう(笑)」

壁を飾る絵画の数々は、ママの作品かと思いきや、「絵画が趣味のお客さんがいて、飾ってくれと持ってくるようになったら、そのうち同好のお客さんたちも持ち寄るようになって、いまではとても飾りきれずに、半分ぐらいはしまってあるんです」とのこと。

カウンターを飾る大ぶりの活け花のほうは、華道の免状も持っているママがもちろんいけていて、「やっぱり、生花のほうが落ち着くし、お客さんの目の保養になると思うんです」。それはもう、プラスチックの造花とは、気分がぜんぜんちがいます。

写真は苦手・・と控えめな千代子ママ

「お通し」と呼ぶには充実すぎる品が、次々登場する。
むかしはもっといろいろ作っていたが、最近はみんな食べてから
来店するので、「張り合いないから、あんまり作らないの」

店名の「復活」は、20近い候補のなかから選んだそう。「お客さんに対しては、
“再び”の意味。自分に対しては、文字どおり“復活”できるかなぁって意味だったんです」

お手洗いには、さりげなく「福沢諭吉訓」

「だからうちは、絵もある、歌もある、花もある、そのままのスナックなんです」と微笑む千代子ママ。お通しだって、マグロの刺身に黒豆納豆に・・と大サービス。ほんとにコストパフォーマンスに優れたお店でした。
スナック 復活 板橋区大山東町58-7

『復活』のすぐそば、これまた古風なエントランスが冒険ごころをそそる『しらべ』は、開けてみれば予想外に若いママが出迎えてくれる。しかしインテリアはもう、昭和の香りそのもの。どうなってるんだろう・・。

二番街なかほどにある『しらべ』はブルーが基調の外装

字体も、空調室外機もレトロ、入らざるをえない!

60年代の日活映画に出てきそうな、昭和風味満点のインテリア

「うちはもともと、母親が1967(昭和42)年にバーとして、ここをオープンさせたんですよ」と教えてくれたのが、娘にして2代目の有美子ママ。


店内奥の、ゴルフバッグが置いてあるコーナーがカラオケ・ステージ

ボックス・エリアは昔の喫茶店みたいでもある

そのお母さんは京都出身で、ご主人とは名古屋で知りあい、結婚。おじさんの誘いがあって池袋に移住してきたが、「引っ越したはいいけど、トタン屋根に汲み取り便所・・池袋なのに、どうなってんの? って感じ(笑)」だったとか。

扉横には毎年サントリーから送られていたプレートが、
ずらりと飾られている。これがあるのは、老舗店のしるし

「カルチャーセンターで勉強したんです」と
恥ずかしがる、有美子ママの水墨画もあり




その後、お母さんは昭和30年代に六本木でバーを開店したのだが、そのお母さんが「八千草薫似のすごい美人で、写真家が『撮影させてほしい』って言ってくるほどだったんですよ」。お会いしてみたかったですねえ。

店のなかでひときわ目を惹く、紫色のライトボックス。
「年配のお客さんも、店に入ったとたん『ああ、懐かしい!』って
言われるんです」とママ。テレビドラマで、撮影に使わせて
ほしいという申し出もあったそう


ちなみに「しらべ」という店名は、「母が、字画の関係で15画の漢字を選んで『調』にしたんですが、お客さんが、『調(しらべ)』って呼んでくれなくて、『ちょう。ちょう』って(笑)。それで平仮名にしたんです」。
しらべ 板橋区大山東町59-18

お母さんのあとを継いだ2代目・有美子ママ

近所の小料理屋さんで、「あそこも古いわねえ」と推薦されたのが『スナック かんとりー』。マンション1階の、ちょっと引っ込んだ自転車置き場脇にあるエントランス。しかもドア脇にはカメの水槽! これまた印象的なアプローチを通り抜けて入店してみれば、思いがけないほど広い店内。スナックって、ほんとに外からじゃなにもわからない・・。

通りからちょっと奥まった『かんとりー』のエントランス


「2年前にお客さんにもらったの」という
カメも、水槽の中からお出迎え

『かんとりー』のユキママは、岩手県宮古市出身。上京してすぐ、友人がやるはずだった人形の店を引き継ぎ、そのあと初めて自分の飲み屋を開いたのが、ここ大山のすずらん通り(しょんべん横丁)そばだった。『田舎っぺ』という店で、1955(昭和30)年のこと。3年後にすずらん通りに移転したときは、「通りで初めてのスナックでしたね」。

ムーディーな店内に足を踏み入れると、ここにも金魚の水槽が


店内は大人数の宴会にも対応可能な広さ



『田舎っぺ』はすずらん通りで25年間も続いて、そのあと線路をまたいで北口に引っ越したのが1983(昭和58)年のこと。そのときに店名を変更した——「お客さんに、こちらに店を出すんですって言いましたら、『かんとりー』という名前がいいって。それで同じカントリーでも、田舎っていう意味だから、平仮名にしたんです」。

関根恵子(高橋恵子)の時計つきパネルが、色っぽい目線を送っている——
「アレ(関根恵子)見ちゃうと、“12時だから帰れ”って言われてるようで・・」と、
パネルに苦情を漏らす客もいるとか

しかし勘定してみると、『田舎っぺ』と『かんとりー』で、すでに56年間! もう半世紀以上も大山で商売を続けているという、おどろきのバックグラウンドをお持ちのユキママであります。

室内アンテナ、ものすごく久しぶりに見ました! いまでも
ちゃんと映ります(デジタルになるまでだけど)

いやあ、長くやってるだけですよ、と謙遜するけれど、こないだも商店街で昔のお客さんと出会い、「飲みに行けなくてごめんね〜、でもオレ、もう歳だから行けないよ」と言われたそう。おいくつなんですかと聞いたら、「92歳です」って! オーバー90のおじいさんに、ごめんねって言われちゃうママの魅力。ただものじゃありません。
スナック かんとりー 板橋区大山東町58-8

立ち退く店も多くなり、寂しくなってきている二番街だが、
「いまの時代はこうゆうものだと思っています。だから、
こうして続けられているだけでも幸せなんですよ」と語る
ママ(右)と、ホステスのかずみさん(左)