2011年4月7日木曜日

東京スナック飲みある記


閉ざされたドアから漏れ聞こえるカラオケの音、暗がりにしゃがんで携帯電話してるホステス、おこぼれを漁るネコ・・。東京がひとつの宇宙だとすれば、スナック街はひとつの銀河系だ。酒がこぼれ、歌が流れ、今夜もたくさんの人生がはじけるだろう場所。

東京23区に、23のスナック街を見つけて飲み歩く旅。毎週チドリ足でお送りします。よろしくお付き合いを!

第9夜:目黒区・学芸大学 学大十字街商店街

入試シーズンともなると、いまだに間違える受験生がいるとかいないとか言われる、学芸大学はないのに学芸大学駅。おとなりの都立大学駅も同じことですが。

学芸大学というのは地名ですらなくて、このあたりは住所から言うと「鷹番」になる。学芸大学駅はもともと、1927(昭和2)年の東横線開通当初は「碑文谷」駅だったのが、青山から東京府青山師範学校が移転してきて「青山師範」駅に、さらに校名が変更されるとともに駅名も「第一師範」駅に改称されたあと、「学芸大学」駅になったのが1952(昭和27)年。よく名前の変わる駅です。

学芸大学は1964(昭和39)年に小金井市に移転したのだが、東急電鉄が周辺住民にアンケート調査したところ、「駅名変更に反対」派が賛成派を上回ったため、大学はなくなっても駅名はそのまま残ることに。しかし大学移転からもう半世紀になるというのだから、そろそろ「碑文谷」駅に戻ってもよさそうなものだが、この地に生まれ育ったひとにとっては、愛着ある駅名なんでしょうねえ。

昔ながらの雑然さが心地いい学芸大学駅東口

近頃の駅前は、こぎれいな駅ビルにロータリーとバス・ターミナル、と決まっているけれど、ここ学芸大学の駅前は昔風(?)に、改札を出ると東口、西口とも、いきなりごみごみした商店街が始まっていて、ひじょうに楽しい雰囲気。商店、飲食店、アパートや一戸建ての住宅が渾然一体と混じり合い、生活感にあふれている。

東口の駅前から徒歩1、2分。商店街のすぐ裏側にある、というより残っていると言いたいのが「学大十字街商店街」(以下、十字街)。世田谷区と並んでこじゃれたイメージのある目黒区に、こんなところが!と驚くような、古き良き飲食街だ。昼間通り過ぎれば、ただの静かな住宅街。でも夜になるとぼんやり明るい通りに、ぽつりぽつりとスナックの灯がともり、薄いドアからカラオケが漏れ聞こえてくる。おまけに十字街は狭い店が多かったため、いまだに共同トイレが、それも2ヶ所もあるという由緒正しき飲み屋横丁の風情である。

東口商店街のすぐ裏に十字街の入口がある。毎年9月に開かれる碑文谷八幡宮の秋季例大祭では、
御輿がこの十字路の真ん中に置かれ、商店街の店々で振る舞い酒が用意される

昔のままの風情を残しているが、閉めてしまったままの店も少なくない


「もともと学芸大学で飲みに行くといえば十字街と、駒沢通り沿いの三谷町(現在の駅西口側の鷹番3丁目周辺)しかなかったんだよ」と教えてくれたのは、学大十字街商店会の会長職を勤める牛山隆二さん。いま東急線ガード下の学大横丁で,お好み焼き屋『かまくら』を営んでいる牛山会長は、十字街に生まれ育った。生家は豆腐店だったそうで、「そのころは私道と区道が入り交じってたから、私道部分を区に譲渡するまでは舗装もなかなかできなくて、雨が降ると何日間も水たまりが残ってね」という状態だった。

飲み屋だけでなく焼鳥屋、中華蕎麦屋などの飲食店と、一般住宅が混在していて、「道が舗装された昭和30年代後半に、新しく名前をつけてお客さんを呼ぼうと、うちの父親が発起人になって十字街商店街っていう名前にしたのね」。ちなみに名前の由来は「道が交差して十字路になってたから」。シンプルでいいですね!

これが十字街名物、共同トイレ。各店舗が狭すぎるための苦肉の策だった。
清掃は各店舗の当番制ということで、いつも清潔だ

しかしドアの外はすぐ通りで、ちょっとびっくり。
お尻と道が薄いドア一枚で隔てられてるんですから・・


スナックという形態が世に出たのは1964(昭和39)年の東京オリンピックあたりからだが、最盛期の十字街は肩と肩が触れあわないと歩けないぐらい、賑わった飲み屋街だったそう。牛山会長も35、6年前に『マイウェイ』というスナックを経営していて、「3.3坪の店内に7人掛けのカウンター、女の子も多いときで5人ほどいて、売り上げが(ひと晩で)7~8万円、多いときで10万円あった」というから、すごいもんです。3.3坪といえば新宿ゴールデン街でも、狭いほうの店の広さですからねえ。

「酔っぱらい同士の喧嘩も日常茶飯事だったけど、昔は明日のカネを心配する人はいなかったからね、考えてみれば飲み代は昔もいまも変わらないか、むしろ昔のほうが高かったんだから、昔は飲むことが大事だったんでしょう」と牛山さん。「いまは楽しみたいより、明日の不安のほうが先に来るんでしょうねえ」と、昔を懐かしむ。

来年2012年には副都心線が渋谷駅で東急東横線と相互直通運転になって、学芸大学にも乗り入れられる。当然ながら新たな再開発も予想されるところだが、「だからこそ風物詩というか、『学大十字街』はこのまま残しておきたいです」。会長、がんばってください!

来週は蒲田を飲み歩きます。

学芸大学の「夜のクロスロード」十字街をハシゴする旅の、1軒目は『スナックバー 司』。全国各地のスナック・ママを撮影した写真集『スナック』(リトルモア刊)で有名な山田なおこさんが出勤していることでも知られる、十字街の名店だ。

いかにも地元スナックというたたずまいの『司』


3坪ほど、カウンターだけの店だが、壁が鏡張りで広く見える

『司』の陽子ママは目黒区碑文谷の生まれ育ち。働いた経験はなかったけれど、「このままだと売れ残っちゃうから、なにかやろうか・・」と考えていたころ、学芸大学にいる親戚から勧められて、店を手伝うことに。そこはマスターとママがやってる店だったけれど、「ママが客と出奔しちゃったのよ!」。で、「借金を返しながらママになってくれ」とマスターに言われて、冗談じゃない!と最初は思ったが、「3坪ほどの店だし、やってもやめても、3ヶ月ぐらいだろう」と引き受けたのが、いまから35、6年前のこと。人生、わかりませんねえ。

陽子ママ(右)と、なおこちゃん(左)。「ハッキリした男が好き」なママは
大の格闘技ファン(特にキックボクシングには造詣が深い)。「試合をする前から、
今日はチャンピオンは勝つな、今日はダメだな」と、選手の発するオーラで
分かるまでになったとか。「今でも電車には(ひとりでは)
乗れないけれど、後楽園ホールには行けるの」ですって。


店にも着物で来ることがある着道楽の陽子ママ、マンション買えるほど、着物や小物、履物にはお金を注ぎ込んだとか。「ものを買うときはね、お金のことを考えたら先に進めないもの」。そのとおりです・・。
スナックバー 司 目黒区鷹番2-20-4

売上がよかった翌日は、ホテルオークラのプールに泳ぎに行ってたとか。
「あのときお金を残してたら、蔵が建ってるわよ」

十字街の角に、演歌歌手のポスターが目を引く『カラオケの店 ゆみ』。一時、前述の牛山会長が『マイウェイ』をやっていた場所でもあるが、いまの店主は由美ママ。店内にも歌手の色紙がたくさん飾ってあって、演歌好きのママさんの店かと思わせるが、カウンターの脇に飾られた往年の『アサヒ芸能』の表紙写真を発見、これなに?と問い詰めると、「実はこれ・・あたしなの」。スナック・ママになる以前、由美さんは日本モデル業界の黎明期に名をとどろかせた有名モデルさんだったのだ。

歌に出てきそうな、かわいらしいスナックだ

外壁に演歌歌手のポスターがずらり

「学芸大学では新人ですけど」・・東京の夜遊びキャリアでは、他の追随を許さない由美ママ

壁は歌手の色紙で埋まっていた




1965(昭和40)年ごろのママ。たまたま店に来た客が『アサヒ芸能』のカメラマンで、
「どこかで見たことがある」と見破られ、表紙の複製写真を持ってきてくれたのだという

アサヒ芸能』の表紙だけでも4回、『11PM』や映画にも出演していたという由美ママ。当時の最高級クラブ(レストランシアター)赤坂『ミカド』で、リドの踊り子とともに舞台に立ったこともあるし、私生活も『コパカバーナ』『ニューラテンクォーター』、銀座の伝説的ゲイバー『青江』、さらにはオープン当時のホストクラブ『愛』と遊び回ったという、華麗すぎる経歴の持主であります。

モデル時代のママのポートフォリオ。きれいすぎ!


学芸大学に引っ越してきて23年。このあたりを飲み歩いているうち、この場所で『カラオケの店 はな』というスナックを開いていた友人が引っ越すことになり、ママ業を「シロウトのまま引き継ぎました」。『はな』名で1年ほど営業したあと、『ゆみ』に店名変更して今年で8年。自分も初めてやった店だから、もともと常連さんもいなかったし、いまでも一見さん大歓迎だそう。昭和の東京ナイトライフ裏話を聞きに、通いつめたいです!
カラオケの店 ゆみ 目黒区鷹番2-20-13

十字街とともに学芸大学の二大飲み屋街だった三谷町に小料理屋を開いたのが43年前、駅東口に移ってもう10年という、学大きっての老舗スナックが『カラオケ 胡蝶』。大分県中津市出身クニ子ママと、娘の晴美ママ。親子二代でいまも店を守っている。

『胡蝶』への階段。店内は意外なほど広々

磨き抜かれたカウンターと、2代目晴美ママ

宴会にぴったりなボックス席もある

もともと、いとこ夫婦が自由が丘でクラブ(「当時は自由が丘にもクラブがたくさんあったのよ」とクニ子ママ)を経営していて、手伝わないかと呼び寄せられたのが水商売の始まり。やがて自分の店を持ちたいなと思い、旧・三谷町に売り物件を見つけて小料理屋を開いたのが、クニ子ママ29歳のときだった。「当時の三谷って、夜になると煌煌と明かりがともる『ドヤ街』でしたよ」とママ。娘の晴美ママも、「小学校に入るか入らないのころで、ボロボロのバラック建ての店が並んでて、子供ごころにも“怪しい…”と思いました」。

しかし店のほうは「10人も入れば満席だったけど、いつも満員で店の外に、お客さんがビールケースをテーブルと椅子がわりにして飲んでました」という盛況ぶり。「3曲1000円でいかがですか〜」っと訪れる流しが、他の店に行かなくても一日の売上が立つほどだったというが、あるとき立ち退き問題が勃発、「うちは最後まで残ってたんですが、隣の店が放火されて・・逃げるのが3分遅かったら焼け死んでたよと警察のひとに言われました」。やむなく近くに移転した後、広告デザインの仕事をしていた娘の晴美さんが「お母さんひとりじゃ大変だから」と店を継ぐ決心をしてくれて、いまの店で母娘スナックを開くことになった次第。

『星の流れに』(菊池章子)を絶唱するクニ子ママ

さらに『TAXI』(鈴木聖美 with Rats&Star)を熱唱するクニ子ママ

かわって『空と君のあいだに』(中島みゆき)を歌い上げる晴美ママ


常連さんからいただいた、クニ子ママ古希の御祝い漢詩。ちなみにママの名字は
「白寿」(しらす)という珍しい名前で、テレビ番組から連絡が来たこともある


クニ子ママ専用の「タマネギ酒」がいつしか客の間で
評判を呼んで、いまでは人気ドリンクになっている

もともと小料理屋からスタートしただけあって、『胡蝶』は「料理はセット料金に含まれていて食べ放題、お腹空いたと言ってもらえればフルコース、もういい!って言われるまで出しますよ」という、すばらしいシステム。母娘とも料理好きで、なかでも晴美ママの餃子は「餃子屋をやればいい」と常連さんに言われたり、「ウマい餃子屋に連れていってやる」と言われて、この店に連れてこられた客もいるほどだそうなので、1軒目から行ってみてください!
カラオケ 胡蝶 目黒区鷹番3-1-6 高橋ビル2F

仲良し母娘で店を切り盛りして10年間。今夜の
クニ子ママのブラウスも、晴美ママからのプレゼントだそう