2011年4月27日水曜日

東京スナック飲みある記


閉ざされたドアから漏れ聞こえるカラオケの音、暗がりにしゃがんで携帯電話してるホステス、おこぼれを漁るネコ・・。東京がひとつの宇宙だとすれば、スナック街はひとつの銀河系だ。酒がこぼれ、歌が流れ、今夜もたくさんの人生がはじけるだろう場所。

東京23区に、23のスナック街を見つけて飲み歩く旅。毎週チドリ足でお送りします。よろしくお付き合いを!

第12夜:港区・新橋 西口飲食街

いまだにサラリーマンや酔っぱらいオヤジのコメント録りには、かならず新橋駅烏森口SL広場が登場する。テレビ局の貧困な発想にも困ったもんだが、あの広場が「働く庶民の意見を代表する場所」であることは、もはや日本全体の共通認識なのだろうか。

新橋駅ホームから西口飲食街エリアを見たパノラマ。
左側が汐留シオサイト。右奥が飲食街の中心だ

太平洋戦争末期の1944(昭和19)年、空襲による延焼を防ぐために、新橋駅西口にあった住宅地の住民は強制疎開させられた。広々とした更地になった駅前に、終戦から2、3日たったころにはすでに最初の露天商が店を開いていたという。新宿と並んで東京でも最大級の「闇市」の始まりである。

闇市の露店はしだいにバラックの巨大な飲食街を形成していった。「夜になった新橋駅西口の匂いは焼鳥の匂いといってよいくらい、うまそうな焼鳥の匂いがこの辺一帯に立ち込めたものである。・・国電が新橋駅にすべり込むと、高架線から見た窓下の焼鳥屋から立ちのぼる熱気のような焼鳥の匂いが、国電の窓にまで流れ込んできたものである」と、映画評論家の大黒東洋士(おおぐろ・とよし)さんは当時の情景を書いているが(『しんばし第98号』「新橋界隈(7)」より)、それがいまの駅西口、ニュー新橋ビルが建っているあたりのこと。

まだSLがなかった当時の駅前は、競馬の場外馬券売り場が常設されたり、街頭テレビが設置されて、にぎわいに拍車がかかっていたようだ。1954(昭和29)年の力道山・木村政彦対シャープ兄弟のタッグマッチには、いまから考えれば小さなブラウン管に映る試合を見ようと、1万人ものひとが集まったというから、すさまじい混雑だったろう。

1946(昭和21)年2月13日、新橋駅西口に広がる「青空マーケット」(闇市)の様子。
左上の建物は桜田小学校。港区立生涯学習センターが建つ場所にあった
写真提供/昭和館

2011年現在のSL広場、昼間の光景

1959(昭和34)年の新橋駅西口広場。1950(昭和25)年5月、
現在の「SL広場」に場外馬券売場が開設された。以降、土日ともなると
3000人もの人々が競馬新聞を片手に詰めかけたという
写真/港区立港郷土資料館所蔵

一説によれば新橋は「東京のキャバレーの発祥地」でもある。すでに戦前の1933(昭和8)年にキャバレー『新橋処女林』が西口に誕生している。1960(昭和35)年には”キャバレー太郎”の異名を取り、納税額日本一を13年間続けた福富太郎さんの「ハリウッド」第1店舗・『新橋ハリウッド』が、現在のニュー新橋ビルのある場所にオープン。そのハリウッドをはじめとして烏森口周辺には『美人会館』『新橋室』『ニュークリッパー』など、大小さまざまなキャバレーが乱立。「キャバレー街」と呼ばれるほどの盛り上がりだったらしい。

しかし一般人、いわゆる第三国人にヤクザものまで、あらゆる人種を飲み込んで「なんでもあり」と言われた新橋駅前の混沌も、昭和40年代になるとさすがに落ちついてくる。1966(昭和41)年に汐留口の新橋駅前ビルが完成、つづいて1971(昭和46)年に西口のニュー新橋ビルが開業する。ビル建設のために立ち退いた飲食店が262軒、そのうち80%がニュー新橋ビル内に新店舗を構えることになったという。現在もビルの1階から地下にかけて広がる、サラリーマンのオアシスのような飲食街は、そうやって形成されたのだった。

1972(昭和47)年の新橋駅西口。正面に見えるビルが前年の2月に完成した
「ニュー新橋ビル」。ビル建設にともない駅周辺に密集していたバラック造りの
飲食店が整理され、同ビルの地下街に収められた。写真が撮影された年の
9月にSL(C11形292号)が西口広場に設置された
写真/港区立港郷土資料館所蔵 
完成から40年経ってずいぶん老巧化したが、あいかわらず
オヤジのオアシスとしてファンの多い現在のニュー新橋ビル

ビル建設と同時に広場も整備されて、場外馬券場は取り壊され、1972(昭和47)年にSL「C11型蒸気機関車」がやってくると、いま僕らが見ているSL広場の原型が完成したことになる。巨大な空き地だった汐留貨物駅跡は、2004(平成16)年ごろから超高層ビルが建ち並ぶ「汐留シオサイト」に生まれ変わり、その汐留と虎ノ門を結ぶ通称「マッカーサー道路」もここ1、2年のうちに完成予定。道路の両側は再開発ラッシュで、虎ノ門側の端には森ビルの(またか!)高さ247メートルという超高層ビルが建築中。「なんでもあり」だった庶民のナイトタウン新橋も、もはやすっかりオシャレに様変わりか・・・と思うけれど、そう簡単には変わらないんですよね! 

居酒屋にスナック、立ち飲み屋に下半身のコリまでほぐしてくれるマッサージ屋・・いまだバラック時代の猥雑な雰囲気を色濃く漂わせる、駅西口のガード下から新橋西口通りの一帯も、昼間は駅から汐留方面に向かうビジネスピープルが忙しげに行き交うが、陽が暮れてしまえば様相一変。昔ながらの、お気取り感覚ゼロの新橋スタイルはいまだ健在だ。デベロッパーさん、残念でした。

昼間はビジネス仕様の人々が急ぎ足で通り過ぎる新橋西口通り

汐留シオサイトに見おろされる感のある西口ガード下

一本奥に入れば、昼間はひと通りも少ない

オトナのオモチャ屋の広告が、お日様の下でちょっと恥ずかしげ

ガード下にはこれも珍しくなった成人映画館が健在

しかしその西口エリアも、陽が落ちるとともにオトナの空気が流れだす・・

看板に灯が入って、夜とともに生き返る飲食街。見おろされていた
高層ビルが、今度は「残業でかわいそう」みたいに見えてくるからおかしい


新橋駅のホームに立つと、ちょうどシオサイトと向かいあうあたりに広がる西口飲食街。さすがにもう焼鳥の匂いは漂ってこないけれど、いまも昭和の新橋ムードをいちばん色濃く残すエリアを、今夜はハシゴしてみよう。

来週は連休のため肝臓も休肝日をいただいて、再来週(5月11日更新)は浅草観音裏を飲み歩きます。

今夜の1軒目は新橋駅西口ガード下という、少々スナックっぽくない立地にある『パブ コダマ』。居酒屋の脇の階段を2階に上がる、一見地味なこの店が、実は新橋有数の歴史を誇る、昭和遺産と呼びたい名店である。

ガード下にグリーンの看板が見逃しようのない『パブ コダマ』

もともとは、いま居酒屋になっている1階と、
2階をぶち抜いたキャバレーだった

クラシカルな階段が2階の店内へと誘う

いまはカラオケ・スナックの『パブ コダマ』は、もともと『キャバレー・ナイトトレイン』として終戦直後の1946〜47(昭和21〜22)年にオープンした。居酒屋になっている1階と、いま店のある2階をぶち抜いた、生バンドにホステスも60名を揃えた本格派キャバレーだった。

『キャバレー・ナイトトレイン』の開業時から、1964(昭和39)年に『パブ コダマ』と業態を替えての再出発、そして現在にいたるまで、一日も休まず掃除に仕入れ、経営管理までひとりで奮闘しているのが、1926(大正15)年生まれ、御年85歳の吉田秀子ママだ。

『キャバレー・ナイトトレイン』当時。アーチ型の
天井が、高架下のロケーションを示している

入店してみれば、思いがけず広々とした店内

ひとりで飲みに来る年輩の常連客も少なくない

女性のお客さんも、ここではのびのび・・というか男性客より元気よかったりする

カラオケ・コーナーに置かれたスペシャル・シートはVIPコーナー?

お客さんが持ってきてくれたお土産を並べてあるカウンターの酒瓶棚



手作りのシートカバーを掛けたスツールで、お尻もこころもあったか

お手洗いの入口には懐かしいすだれが


大阪出身の秀子ママは、「幼いころに親が(他人の)保証人になって、借金の肩代わりで家も店も取られちゃって、東京の品川に出てきたんです。それで風呂屋をやってたんで、親といっしょに大八車を引いてはお屋敷町に行って、(剪定後の)庭木の木っ端をもらって乾かして、カマドに燃してたの。子供のころから働きどおし、いまだに働いています!」という苦労人。

ご両親が決めた婚約者が戦死してしまい、神田で中華料理屋を営んでいたご主人と結婚。「そのころは多摩川の六郷土手の防空壕に住んでたんですよ!」と苦労を重ねるうち、ご主人の友人だった国鉄職員が「このガード下もらったけど、オレ、使いかた思いつかないから、貸してやるよ」と言われたのが、このガード下で店を開くきかっけだった。

最初は中華料理店、すぐにキャバレーに転身して大成功。一時は都内に数店舗を構えるまでになった。ちなみに『ナイトトレイン』という店名は「(お金が)ないと、取れないよ! あーははははははっ」なんておっしゃってましたが、キャバレー・ブームに陰りが出てきたころにパブとして再スタート。ちょうど1964(昭和39)年、東京オリンピックの年に東海道新幹線が開通したのにちなんで「こだま」に決めたのが、看板ができあがってきたら「『コダマ』になってたの!」。

いまも店内の隅々にまで気を配りつつ、お客といっしょにお酒もクイクイという秀子ママを筆頭に、『コダマ』のホステスさんは中国、台湾、フィリピン、シンガポール、ミャンマー(ビルマ)、そして日本人と国際色豊かに総勢14人。お客さんも70代の年配常連客に、サラリーマンの飛び込みグループなどなど、いい感じのミックス。12人以上が並んで座れる長〜いカウンターに、テーブルが11卓もあって、団体客も常時対応可能だ。

きょうも元気にお店を切り盛りする秀子ママ。計算はソロバンで。
従業員の給料にはいつもピン札を用意。それも紙幣を「続き番号」で揃えるという。
「働いているひとへの、せめてもの心遣いです」

医者はお酒控えろって言うけど、飲むと楽しくなるからね!

キャバレー時代から数えれば65年間という日々を、夫唱婦随で働き暮らしてきた秀子ママ。1994(平成6)年にご主人が亡くなられてからは、ひとりで元気にがんばっている。「まわりの店はみんな辞めてったけど、わたしゃ元気なうちは続けますよ。人間、あんまり贅沢を言わないで、働くことがいちばんいいの!」と言いながら、「もうちょっと飲んじゃおうかな!」とお酒をお代わり。お話をうかがってるだけで楽しくて、そのうちにちょっと感動しちゃいます!
パブ コダマ 港区新橋3-25-20


ピンボールのような看板が印象的な『ニューいずみ』の入るビル

西口通りをずーっと奥に進んでいくと、ちょっと前まであった飲み屋が、マッカーサー道路に関わる再開発で、ずいぶんなくなっている。その再開発エリアの手前、ノスタルジックな電飾看板が印象的な飲食ビルの地下に店を開いて、今年が31年目という老舗が『カラオケスナック ニューいずみ』だ。

「もともと烏森口の新橋柳通りで、お母さんが『いずみ』という小料理屋をやってまして、スナックに変えるときに『ニュー』をつけたんですよ」と教えてくれたのが、泉圭以子ママ。ご主人である和廣オーナーと、2009(平成21)年からマスターを務めている長男の広高さんの、現在は3人体制。広高さんと4人の兄弟・姉妹も忙しいときには店を手伝ってきたそうで、小料理屋時代から数えれば親子3代、強力なファミリーの結束によって30年間以上も景気の荒波を乗り越えてきた、スナックには希有な店なのだ。

1階から地下に降りていく明るい階段。「いずみ」のロゴ・デザインがモダンだ


ママにお店の歴史を詳しくうかがおうとしたら、「これにみんな書いてありますから!」と渡されたのが、『NEW IZUMI 30th ANNIVERSARY BOOK』と題された小冊子。「うちは常連が90%!」というニューいずみ常連チームが作った、全26ページの充実ブックレット。店に通って10年、20年、30年というベテランが、すごくうれしそうに思い出を語っている。

アットホームと言う形容が軽すぎるくらい、この店の経営チームとお客さんは、ひとつの巨大な家族なのだろう。ブックレットに寄稿された声で共通しているのが、「スタッフの方々がリラックスさせてくれるので、知り合いじゃなかったお客さんとも仲良くなれるところが楽しい」という感想だったが、温泉旅行にボウリング、野球大会と、お客さん同士の交流が盛んなのも、そんな泉ファミリーと常連さんたちが作りだす、あたたかなコミュニケーション空間のおかげにちがいない。

入店すると、まずこじんまりしたカウンターがある

カウンターと向かいあう壁にはずらりと8トラックのコレクション。
圭以子ママはかつて「ノド自慢荒らし」として知られた新橋の歌姫。
新橋界隈の歌自慢ママのなかでも、特筆すべき存在だったそうで、
そんなママのおかげかお客さんも歌自慢が多いという

奥のソファ・エリアは落ちついた雰囲気。カラオケ用のステージが
用意されている。広高マスターが演奏するという生ギターがかたわらに

ウォーホルなど、さりげなく飾られている絵画のセンスも、
ふつうのスナックとはひと味ちがう

30周年記念のブックレット。20周年、25周年でも
同様のブックレットが作られたという、恐るべき常連さんのチームワーク!


景気が良かったころは「整理券を配りたいくらい」客で溢れていた。
店はボックス席を含め25人(カウンター席5人)は入れるが、
最高で40数人、カウンターの中にまでお客さんが入ったこともあったとか

「(マッカーサー)道路のおかげで、このへんの店もずいぶん立ち退いちゃいましたけど、うちはマスターも代がかわって、若いお客さんも増えたりしてますから、いつまでも新橋のオアシスとしてがんばりますよ」とママ。周囲には中国系の難易度高そうな店が目立つなかで、こんなに優しいお店もあったんですね!
カラオケスナック ニュー いずみ 港区新橋3-19-6 新陽ビルB1