2011年3月16日水曜日

東京スナック飲みある記


閉ざされたドアから漏れ聞こえるカラオケの音、暗がりにしゃがんで携帯電話してるホステス、おこぼれを漁るネコ・・。東京がひとつの宇宙だとすれば、スナック街はひとつの銀河系だ。酒がこぼれ、歌が流れ、今夜もたくさんの人生がはじけるだろう場所。

東京23区に、23のスナック街を見つけて飲み歩く旅。毎週チドリ足でお送りします。よろしくお付き合いを!

第7夜:中央区・人形町

ちょっと前まで、“下町の粋”という言葉がいちばん似合う場所は人形町だったかもしれない。

築地から隅田川に向かって走ってきた地下鉄日比谷線は、水天宮前で90度にカーブし、人形町通りの地下を北上する。その水天宮から人形町駅のある交差点までの両側、日本橋人形町1丁目、2丁目と呼ばれるエリアは、かつて東京有数の賑わいを誇る繁華街であり、夜の遊び場であった。

 表通りは商店街だが、路地や裏道にはまだ昔の風情が残る人形町界隈

現在はビルの中に入ったスナックや飲食店も多い

昭和51(1976)年に町名変更されるまで、このあたりは「人形町」と「芳町」(葭町とも)いう、ふたつの町に大きくわかれていた。そもそも江戸時代初期に歌舞伎の芝居小屋ができると、あやつり人形芝居や見世物小屋も集まる芝居街がこの地に興る(それが地名の由来とも)。同じころ江戸市中の遊女屋を一ヶ所に集めた遊郭がここに誕生、はじめ葭町の葭を取って「葭原」と呼ばれたのが、縁起を担いで「吉原」に改められた。明暦の大火(1657年)で、いまの浅草・吉原に移されたことから、このあたりは長く「元吉原」とも呼ばれたという。

芝居あり、遊郭ありで、江戸のころから人形町、芳町はお茶屋、料亭、芸者置屋、待合などが密集する一大歓楽街だった。1897(明治30)年ころからは新橋と並ぶ格式と人気を誇る花街となり、「粋でおきゃんで芸が立つ」と称される芳町芸者の名が高まるとともに、通りには遊びをわかるひとたちのための、洒落た料理屋や商店が軒を並べるようになった。

1929(昭和4)年の『新版大東京案内』(今和次郎編・中央公論社版)には——

人形町—これこそ、お江戸日本橋の心臓、今になっても純下町の空気が残ってゐるのはこゝくらゐのもの。縞の着流し、角帯、つぶし島田の芳町藝者、といったやうな昔ながらの面影が、まだ失はれずにゐる。・・・

とある。親子丼を考案した玉ひで、すき焼きの今半、たいやき発祥の柳屋、粕漬けの魚久、洋食の芳味亭などなど、往時の面影を残す店がいまでもたくさん残っているし、大正末期から昭和初期のモボ・モガ時代に、『カフエー・パウリスタ』をはじめとするカフェがずらりと並んだのもここ(現在も1919(大正8)年創業の『喫茶去 快生軒(きっさこ かいせいけん)』が営業中)。東京最大級のダンスホールも、おそらく東京最初のキャバレーもあれば、人形町通りを中心に7つも映画館が並んでいた。戦前は侠客、戦後は実業家として名を馳せ、明治座の社長でもあった新田新作の後援を受けた、力道山の道場もあった。

地図を見ると、人形町は日本橋と隅田川を結ぶあいだにある。隅田川から見ていけば、浜町公園を挟んですぐ明治座があり、人形町を越せばすぐに東京穀物商品取引所、そして兜町の証券取引所があり、日本橋に至る。江戸から東京へ、そして高度経済成長の時代、人形町は日本経済を支えた財界人や投機筋の遊び場でもあったのだ。

1939(昭和14)年生まれ、15の歳で半玉になり、いまだに現役の芳町芸者をつとめるかたわら、小料理屋『卯㐂世』の女将でもある小川喬子(たかこ)さんによれば、「昔は芸者さんが500人近く、置屋が百数十軒、料亭・待合あわせてこれも百数十軒ありましたから」という賑わいだった。「人形町や芳町って、みなさんは銀座で飲んだ二次会の場所と思われるかもしれないけど、そうじゃないの。ここのお座敷で遊んで、そのあとお客さんにわたしたちみんな、六本木に銀座、赤坂って連れて行ってもらうんです。コパカバーナとか、ラテンクオーターとか、とても普通じゃ行けないところに、たくさん行かせてもらいましたねえ」と、当時を懐かしむ。

唯一残っている人形町の名料亭『玄冶店 濱田家(げんやだな はまだや)』

そんな”江戸の粋”人形町も、昨今はすっかり様変わり。あれだけあった料亭も『濱田屋』一軒になり(ミシュラン3ツ星でも知られる)、芸者さんも十数人にまで減ってしまった。「だいたいいまはインターネットで芸者を募集するような時代でしょ」と喬子さん。「むかしは経済的な事情からこの世界に入って、何年間も修行してからお座敷に出たもんですよ。だから、芸ができてるうちは、70んなっても80んなっても”おねえさん”って呼ばれるでしょ。でも、いまはお稽古ごととか、発表会に出たくて芸者になる子が多いんですからねえ」と溜息をつく。

1954(昭和29)年頃の「半玉」時代の喬子さん(写真中央)。
芸名は孝枝(たかえ)さん
元吉原が置かれていた名残を示す「大門通り」にて

後ろ姿も粋なこちらは、大門通りと結ぶ小路にて。『今半本店』が奥に見える

半玉時代の記念写真

芳町の売れっ子芸者時代の孝枝ねえさん、おきれいです・・


明治座で芳町芸者が勢ぞろいして技芸を披露する「紅会(くれないかい)」の芳町踊り。
1951(昭和26)年3月に第1回公演が行われた「紅会」だが、
1972(昭和47)年5月の第16回公演を最後に行われていない

遊びごとに「リーズナブル」とか「コストパフォーマンス」とかいう言葉がついてこなかった、古き良き時代は遠く過ぎ、いまや上司・部下、男女で飲んでも「割り勘」が当たり前の時代。表通りをあるけば「ちょっと前まで、あんなのひとつもなかったんだけどねえ」というファストフードやファミレスのチェーン店が、老舗にかわってけばけばしい店を開き、裏通りのしもた屋はバブル期の地上げを経て、みんなせせこましいビルにかわってしまった。

夕方になれば銭湯帰りの半玉さんが、からころ下駄をならして急いだ道は、いまや”下町ブーム”とかでガイドブックを片手の観光客ばかりが、お目当ての店を探して右往左往。「柳屋のたいやき買いに並んで、カップルふたりで1個だけ買って、それを道で食べて包み紙をポイ捨てしちゃうんですからねえ」と嘆く喬子さんの、在りし日の芳町、人形町の「品のある遊びの街」の風情は、もう戻ってこないのかもしれない。

粋が身上だった人形町も、いまではファストフードや
チェーン店ばかりが目立つようになってしまった

そんな激変しつつある都心の下町・人形町の、ここなら昔の話もいっぱい聞けて、昔ながら品よく楽しく飲んで遊べるスナックを、今夜は3軒ハシゴしてみよう。

来週は池袋を飲み歩きます。

今夜の1軒目は『卯㐂世』と同じ路地に店を構えて、もう23年目という『バイキング』。スナックというより神保町裏の喫茶店みたいに古風な店構え。ドアを開けると、懐かしい「電話ボックス」にまず驚き、一歩踏み込めばこれまたスナックというより食堂みたいに広く、明るい店内にまたびっくりする。

小路にたたずむ『バイキング』

「BAIKINGU」のローマ字も楽しい看板は、マスターみずからの手による描き文字。
北欧の「バイキング」なのに、最近は「食べ放題」の意味に捉えられることが多く、
初めて連れてこられたお客さんのなかには「いま飲んで食べてきたから、
もう食べられないよ」という人もいるとか

店に入ると、いきなりあらわれる電話ボックス

レジ脇にはダーツとサブちゃんの色紙が

喫茶店だった面影を残す、広々とした店内

ソファ席のみで、大人数対応。いまは「貸し切りがメイン」だそう

松崎晴道マスターは祖父、両親の代から人形町界隈に店を構えた、ちゃきちゃきの人形町っ子。もちろんこの町の生まれ育ちだ。お祖父さんは芳町で呉服屋を開き、お父さんはもともと軍需関係の仕事をしていたのが、戦後間もなくは鍋や釜を作って上野のアメ横(当時は闇市)に流したり、自動車工場を経営するなど多角的に事業を展開していたのが、台風による工場の被害と労働争議で嫌気がさし、いきなり和菓子屋に転業したという珍しい経歴。和菓子屋がそのうち喫茶店になり、それからお酒も扱うようになり、おにぎり販売も兼ねたオデン屋に。それが1989(昭和64)年ごろから、現在のようなスナックの形態になったのだとか。

そこここに上品なディスプレイ


マスター発案の立派なステージが設けられ、
歌唱にも気合いが入りそうだ

松崎晴道マスター&美津子ママ

17、18坪あるという店の広さから、『バイキング』は場所柄、証券会社、繊維・アパレル系の会社のお客さんが、貸し切りで宴会をすることが多いそう。「昔は会社の各"課”単位の大人数で来てもらってたんですが、いまは経費や接待費が出ないですから、そういう飲み会も減りましたねえ」と松崎マスター。基本的に会員制で、一見さんは難しいが、「事前に予約していただけたら大丈夫です」ということなので、この界わいで二次会をと考えている幹事さんは、ぜひいちど連絡してみるべし。
バイキング 中央区日本橋人形町2-6-2


人形町の裏通り、いくつかスナックビルがあるなかの一軒に店を構える『Jamboree』。こちらは一見さんでも大歓迎だが、エレベーターで3階まで上っていくので、あらかじめわかってないと入りにくいかもしれない。
 ドアを開ければママをはじめ女の子が3、4人「いらっしゃいませ〜」と出迎えてくれて、しかも見渡せば店内はシックな内装の中に、あふれんばかりに活けられた生花がゴージャスなこと。ここ、クラブじゃないんですか・・。


ビルの3階で営業中の『Jamboree』。喫茶店時代、英語が
敵性言語だった戦時中には『憩( いこい)』という店名を使っていたとか

高級クラブかと思ってしまう上品な店内

ベランダに飾られた大ぶりの生花が、いきなり目に飛び込んでくる

カウンターにも花は絶やされることなく、
ゴージャスな雰囲気を盛り上げる


お手洗いだってこのとおり

「クラブだなんて、とんでもない! ドシロウトがやってるんだもの、それにうちの店、地味だと思うんですけど・・」と言うのは、サナエママ。もともとママのお母さんが喫茶店『Jamboree』を開いたのは、昭和15(1940)年のこと。それが酒と軽食を出す「スナックのような店」にしたのは、東京オリンピック(1964年)あたりだという。スナックという業態が生まれたころだが、当時はお母さんと、キッチンに女の子をひとり置いただけの店が、「母の人格もあって、大変な人気の店だったんですよ」。


ママ自身は「店を継ぐ気なんかさらさらなくって、昼の仕事をしてたんですけど」、縁があって人形町のビルの一室を借りてプールバーを1987(昭和62)年から、2年間ほど経営。ちょうどお母さんの店が移転することになったので、「両方にお客がついてるから」と、母娘でレストランバーとして1店舗に統合。8年前にこのビルに移ってきてからは、スナックとして営業しているという。華やかな雰囲気にもかかわらず、値段は普通に飲んで6000〜7000円とお手頃だが、「いまは大変でしょ、みなさん。ポケットマネーで飲むひとにはサービスして、次に経費で飲める機会にまた来てねって言うんです」とサナエママ。下町女の気っぷ、お見事です。


春にはバルコニーの花瓶に桜をいっぱいに生けて、「外でお花見するよりぜんぜんいいですよー」とのこと。おいしいお酒ときれいな花と、きれいなママと女の子・・隠れ極楽でしょうねえ。
Jamboree 中央区日本橋人形町2-2-8 グレース5ビル3F


お母さんの時代から人形町で店を守るサナエママと、
ほがらかな陽香(はるか)ちゃん。「いつまでたってもシロウトですから!」と
強調するママは、「同伴」と「アフター」という業界用語も、
最近になって店の女の子に聞いて初めて知ったとか

昔は都電が走っていた人形町通りを渡った1丁目側、高層ビルの陰に隠れるように、古い建物の地下で営業を続ける『よりみち』。今年で開店50周年! 現在の梢ママが先代から引き継いでからも、すでに四半世紀という人形町でも指折りの老舗店だ。


人形町通りを挟んで『バイキング』『Jamboree』と反対側にある『よりみち』。
ビルの2階にネオンがあるが・・

実は地下1階にある人形町きっての老舗スナックだ

もともとカウンター・バーだったころを偲ばせる階段頭上の看板

看板を頼りに階段を降りて入店すると、そこはカウンターが2本もある、意外なほど広い店内。半世紀前にスタートしたときは『バーよりみち』だったそうで、業態をスナックに変えてからも内装は基本的にもとのまま。店内のそこかしこに昭和の香りが漂っていて、カウンターで飲んでるだけで、なんだかうれしくなる。


長いカウンターが特徴的な店内。妙に落ち着ける気がするのは
「椅子とテーブルの高さがちょうどいいのよ」とママ

建物が古いので店内の耐震工事を施したが、カウンターまわりは当時の造作のまま。
ボトルの収納棚など「大工さんが言うには同じものは
作れないから、この味を生かして使ったほうがいいって。
直さないでほしいというお客さんの声も多かった」そう

宴会を盛り上げる小道具も完備

地下の店ゆえ、入口脇には携帯電話置き場が

いろんなイベントも欠かさず開催

50年も店を開いていれば、年季の入った常連さんもたくさんいる。「20代の新入社員で来はじめて、定年まで通いつめ、退職したいまも来てくれてるひとがいるんですよ」というから、『よりみち』とのつきあいのほうが会社よりも、奥さんよりも長くて深いお客さんだって、少なくないにちがいない。



「楽しく飲んで帰ってもらえる空間とサービスを提供するのが私の仕事」など、
ママの人生哲学が持ち帰り自由の巻物になっている




便器正面に貼られた「小便指南書」も秀逸

そんな『よりみち』の魅力のひとつが、梢ママの美声。数年にいちどはライブハウスでリサイタルを開き(バンドメンバーはお客さんたち)、TOKYO MXの有名番組『5時に夢中!』内の『おママ対抗歌合戦』にも出場した実力の持主だ。「ママの歌を聴きたくて、来店するお客さんもいるんです」と店の女の子たちが言うほどの歌声。


かわいらしくて、でも「若いサラリーマンにはカウンターでの飲み方を教えたりしますよ、会社の上司さながらにね」という、下町気質の気っぷの良さ。「粋でおきゃんで芸が立つ」芳町芸者のスピリットは、もしかしたらこんなところで、ちゃんと生きていたのかもしれない。
カウンタースナック 唄える店 よりみち 中央区日本橋人形町1-15-6


坂本冬美『ずっとあなたが好きでした』を熱唱中の梢ママ

壁にはママのステージ写真が飾られていた

2005年11月20日『銀座TACT』で開かれた、
梢ママ『よりみち』20周年記念ライブ映像『ヨリミーーチ』DVD。
お客さんの制作。残念ながら非売品です


お客さんの歌には、全員が揃いの振りと手拍子で盛り上げる

女の子は現在3人(中央が梢ママ)、
週3のローテーションで稼働中とのこと