2011年3月2日水曜日

東京スナック飲みある記



夜、知らない町に降りたって、看板の灯りに惹かれてスナック街を歩くのは、夜間飛行にちょっと似ている。眠れないままに窓の外を眺めると、真っ暗な大地にぽつんぽつんと明かりが見える。ああここにもだれかが住んでるんだな、いまなにしてるんだろう。そうして退屈なフライトが、少し楽しくなってくる。

閉ざされたドアから漏れ聞こえるカラオケの音、暗がりにしゃがんで携帯電話してるホステス、おこぼれを漁るネコ・・。東京がひとつの宇宙だとすれば、スナック街はひとつの銀河系だ。酒がこぼれ、歌が流れ、今夜もたくさんの人生がはじけるだろう場所。

東京23区に、23のスナック街を見つけて飲み歩く旅。毎週チドリ足でお送りします。よろしくお付き合いを!

第5夜:北区・赤羽駅東口

東も西も南もないのに、北だけがある東京の23区。「このへんは北ってことで」と大雑把にひとまとめにされた、北区の成り立ちを想像させる区名である。その北区の区役所があるのは王子だが、商業、交通の中心になっているのが赤羽。すぐ北隣が荒川を挟んで埼玉県川口市という、東京23区のノースエンドを守る要地である。

もともと見渡すかぎりの農村だったのが、その広さと都心からの近さから、明治以来の赤羽はおもに陸軍関連の基地、演習地が集まる「軍都」として発展した。そして終戦。北関東から池袋、新宿、上野へと乗り入れるターミナル的な立地であった赤羽は、米や野菜の食料品のヤミ物資をさばく「カツギ屋」の取引所となった(列車が荒川を越える際に徐行するのにあわせ、物資を車窓から放り投げ、それを地上で受け取ることもあったという)。終戦の直後から、赤羽駅前にはバラックが密集する巨大な闇市が形成されていたのだった。

敗戦から立ち直ろうとするエネルギーそのままに、無秩序に増殖していった闇市の、特に東口の小店群は「バネの迷路」と呼ばれ、赤羽を象徴する存在だった。現在でもその痕跡が、線路沿いに伸びる「OK横丁」や、赤羽一番街裏の「シルクロード」に見てとれる。

赤羽をほぼ南北に走るJRの線路(そのむかし埼京線は赤羽線と呼ばれる、池袋から赤羽までの短い路線だった)によって、赤羽は長いあいだ東西に分断されていた。赤羽駅のホームが高架になる以前、線路の東西を横断するには「開かずの踏切」を渡らなければならず、ピーク時には20分あまり開かなかったという。いま赤羽駅前には西側の「西口エリア」、東側の「東口エリア」「南口エリア」とそれぞれ異なるキャラクターのゾーンがあるが、そんなふうに環境がわけられてしまったひとつの要因が、JRの線路だったのかもしれない。

再開発されて大型スーパーやマンションが建ち並ぶ、郊外住宅地への入口となった西口エリア。それに対して東側のほうは、キャバレー・ハリウッドがランドマークとしてそびえる南口に風俗関係が集まるいっぽう、赤羽一番街が駅前から伸びる東口には、朝から飲める「まるます家」やもつ焼きの「八起」といった老舗居酒屋が、しばしばメディアで取り上げられたおかげで、いまでは安くて旨い居酒屋タウンというイメージがすっかり定着している。実際、このあたり昼間は閑散としているのに、夕方になると一番街も、並行して線路際に伸びるOK横丁も一変、ずらり軒を連ねる居酒屋の呼び込みでいきなり活気づく。

1968(昭和43)、空から見た赤羽一番街商店街とOK横丁
(写真半分から下、店舗が密集しているところ)。真ん中の建物が赤羽小学校。
写真提供/赤羽一番街商店街振興組合

こちら2011年現在の赤羽駅。向かって左側が東口飲食店街

1968(昭和43)、赤羽一番街商店街・駅東口側の入口アーケード。
「ICHIBANGAI」の文字と「OK横丁」の文字が読める。
写真提供/赤羽一番街商店街振興組合

赤羽一番街、今日の居酒屋ブームの立役者である「まるます家」。
朝9時から飲める名店だ!

OK横丁入口。「OK」の名は1975(昭和50)年ごろ、
お客さんの投票で! つけられたという

闇市から始まった一番街は、1946(昭和21)年に商店街(赤羽復興会商店街)として整備され、もともと商店が並ぶ「昼間賑わう街」として発展してきた。いっぽう一番街と並行して線路ぎわに伸びるOK横丁のほうは飲み屋、小料理屋が並ぶ「夜賑わう街」という棲み分けがあったらしいのだが、ここもまた大型店の進出や、後継者問題で(3代目が跡を継いでいる商店はわずかしかないという)、いつのまにかこのあたり一帯が巨大な飲食店エリアになってしまった。「これだけ飲食店が増えると、もう生鮮三品(魚、肉、野菜)の店もないし、商店街と言っていいかわからないよねぇ」と、赤羽一番街商店街振興組合の理事長を務める小出俊雄さん(小出紙店の4代目、現在はファミリーマート経営)も複雑な表情だった。

日暮れとともに東口エリアは居酒屋を目指すひとたちで賑わうが、一見したかぎりスナックはほとんど見つからない。赤羽のディープなスナック・エリアは、実は一番街を越えてさらに北上、東京メトロ南北線の赤羽岩淵駅がある北本通りに向かう、区立赤羽小学校裏の奥まった一角にある。

かつて二番街と呼ばれ、栄えた東口裏一帯

いまは見るかげもなく静まりかえり、ゲーム機までが侘びしい風情

エリア唯一の有名店、「お化け居酒屋」と呼ばれる『赤羽霊園』

いま、このあたりを歩いてみても、ただの静かな住宅街にしか見えないが、かつてはここが一番街に続く「東口二番街」と名のついた、赤羽屈指の歓楽街だった。一番街が「一次会用」だとすれば、二番街は「もう一軒」のための場所。地元で長く暖簾を掲げる寿司屋のご主人によれば、「昭和45年ごろはねえ、(二番街が)赤羽でいちばんの飲み屋街だったんだよ。当時は飲み屋だらけで、生バンドが2バンドも入るホストクラブもあったし、ヤクザもいっぱいいたから、喧嘩沙汰も日常茶飯事でしたよ」。夜ともなれば真っ暗な住宅街になってしまった現在の二番街からは、なかなか想像しがたいワイルドタウンだったらしい。

小さなマンションや一戸建て住宅が並ぶ夜道を歩いていると、たしかにいまでもぽつぽつと、古びたスナックが看板を出している。その大半は、店名と店構えこそ昔のままだが、経営者は幾度か代替わりしている店らしい。今夜はかつての二番街とその周辺で、昔からかわらず営業を続ける老舗の名店を2軒、おまけにOK横丁でシメの一杯と一曲を楽しめる「カラオケ居酒屋」をハシゴしてみよう。

来週は亀戸を飲み歩きます。

今夜の一軒目は、かつて二番街と呼ばれていた通りのスナックビル「レインボープラザ」に店を構える『スナック 花うさぎ』。このあたりに残るスナックは一戸建てが多いのだが、『花うさぎ』は一番街から二番街に続く角のスナックビルで6年間、そのあとこちらに移ってすでに15、6年という老舗スナックだ。
ママの三枝子さんは赤羽の隣駅、東十条で結婚生活を送っていたのが、離婚して「食べていくために喫茶店をやろうと店を探していたうちに、赤羽でスナックをやっていた友人に勧められて」、ずぶの素人のままスナックを始めてしまった。

寂しいレインボープラザ前。いまは
入っている店のほとんどが中国系だ


開店以来のお客さんも多い、華やかな中にも寛げる店

いつも元気な看板娘ルナさんと、談笑中の常連さん

店内はフェミニンなタッチで統一されている

さりげなくピーポー君が。お堅い職業のお客さんも来るそうで、
「そういうひとって現役当時は目つきが鋭いけど、定年後にいらっしゃると、
ものすごく優しい目になってますよ」とママさん

もともとのお客さんがついていたわけではないので、「まずは親族、友達をひととおり呼んで、それが途切れてからは大変!」だったそう。開店当時はちょうどバブルが弾けたあたりだったが、「赤羽にはまだ(バブルの)余波があったので、そのうち”シロウトがいきなりママになった”って珍しがられて」、お客さんが多くなってきてからは、「もう、いつも満席! お客さんはいいひとばっかりだし、毎日毎日、楽しい思いで営業させていただきました」。
そんな夢のような時期も過ぎ、スナック業界は長引く不況から抜け出せないままだけれど、『花うさぎ』は平日でも3人、週末は4人も女の子を入れて(しかも全員日本人)、ちょっとしたクラブのように華やかな雰囲気。基本的には会員制だが、ママのおめがねにかなえば入店可能なので、雰囲気を読めるベテラン諸君はトライしてみるべし!
スナック 花うさぎ 北区赤羽1-36-7 レインボープラザ3F303


赤羽小学校裏の、ひときわ暗い一角にポツンと灯る『ノエビア』の看板・・って、化粧品じゃなかったでしたっけ? もう30年以上、いまだに現役のノエビア・セールスレディとして活躍する幸子ママが、1984(昭和59)年に開いたスナックがこの『ノエビア』なのだ。


女の子募集の貼り紙は、安心な店を見分ける重要なポイント



さすがに目立つノエビアのポスターが店内に

友達の実家みたいにアットホーム

もともとノエビアのセールスのために、事務所を探していたママ。小料理屋とスナックが入っていたこの建物を紹介され、「ついでにスナックもやっちゃえば」と周囲から勧められて、まったく経験のないまま夜の商売も始めてしまったそう。ノエビアの名前を使えたのは、「当時はわたしが関東エリアでトップのセールス成績で、毎月100万以上は売り上げてましたから、本社もいいって言ってくれたんですよ」とのこと。ほかにノエビアの名前がついたスナックは、全国にひとつもないはずだそうで、それだけ敏腕セールスレディだったんですね。


カラオケの横には化粧品のストックもあります



開店当時からそのままのインテリアが、昭和の香り

お店を開いてもうすぐ28年。当時はバブル真っ最中で、大日本印刷、凸版印刷、製薬会社、証券会社、拓銀(当時)、など企業のお客さん、大工さんなど職人さんも競って押し掛け、ヘネシーやマーテル、リザーブなんかを一日おきぐらいに入れてくれた。「女の子も5人ぐらい雇って、連日満員。やむなく帰ってもらうときは、名刺の裏に”ビール1本サービス”とか”カラオケ5曲サービス”とか書いて渡してましたねえ」。
いまは平日が幸子ママとご主人の勝マスターのふたりで、週末は女の子もふたり入って賑やかに営業中。おそらく東口エリアで最古の現役スナックなので、幸子ママに赤羽の昔話をおねだりしてみよう。
スナック ノエビア 北区赤羽1-38-8

幸子ママと勝マスター、うしろが週末スタッフの
あすかちゃん(左)とかおりちゃん(右)

10年来の常連さんとVサイン!


二番街周辺のスナックでさんざん飲んで、赤羽駅によろよろ歩いていくと、同じような居酒屋がひしめくOK横丁の、駅寄りのあたりに、カウンター居酒屋でありながらカラオケの絶唱が、通りに漏れ聞こえる店がある。思わずドアを押してみると・・中は満員、しかし常連さんたちが席を詰めてくれて、ほっとひと息。『居酒屋 未知』は一番街のまるます屋など、このあたりで働くひとびとも仕事あとに愛用する、ツウ好みの「カラオケ居酒屋」だ。


外から見れば居酒屋、しかしカラオケの絶唱が・・・

レースのカーテンにぼんぼりが酔いを誘う

夜が更けるほど、異常なまでに盛り上がる店内

カウンターで料理と飲み物を用意するのに大忙しの、正敏マスターと志寿ママ。ふたりの手の空くのを見計らって注文を入れながら、カラオケを絶唱するお客さん。横歩きでしか通れないカウンターと壁のあいだに立って、歌い踊る常連さん。ふと時計を見ればすでに終電は過ぎ・・それでも入ってくるお客さんあり。こんなに賑やかなパラダイスが、深夜のOK横丁にあったんですねぇ。



次々に入るオーダーを手際よくさばいていく志寿ママ

深夜には危険な充実メニューが壁に並ぶ

湯豆腐に焼きそば、レーズンバターに馬刺し、厚揚げ、いかげそに赤飯・・小さなカウンターから、神業のように多彩なメニューを繰り出す志寿ママ。それを楽しげにサポートする正敏マスター。そして深夜になるほどノリノリのお客さん。あまりにも楽しい雰囲気に、この原稿を書く直前にも再訪したら、「都合によりしばらくお休みします」の貼り紙が! 心配です、一刻も早く再開されますよう。
居酒屋 未知 北区赤羽1-17-4




横歩きしかできない通路に立って歌うのが「未知」スタイル!



「未知」の看板メニュー、サーロインステーキ。
「1500円で仕入れた肉を、1500円で出してるんだから!」という心意気。
超美味・・しかし夜中に食べていいんだろうか

正敏マスターと志寿ママ、一日も早い再開を!