2011年6月23日木曜日

東京スナック飲みある記


閉ざされたドアから漏れ聞こえるカラオケの音、暗がりにしゃがんで携帯電話してるホステス、おこぼれを漁るネコ・・。東京がひとつの宇宙だとすれば、スナック街はひとつの銀河系だ。酒がこぼれ、歌が流れ、今夜もたくさんの人生がはじけるだろう場所。

東京23区に、23のスナック街を見つけて飲み歩く旅。毎週チドリ足でお送りします。よろしくお付き合いを!

第18夜:墨田区・押上駅前

浅草から隅田川を渡れば本所吾妻橋と向島。その先がすぐ押上(おしあげ)になる。2012年5月22日と決まった開業を待ちきれない見物客で、すでに混雑状態の「スカイツリーのお膝元」だ。ツリーがこの地に決まるまでは、近隣や沿線住民以外には「おしがみ」とか「おしうえ」とか誤読されたりして、ちょっと影が薄かったのに。

墨田区の地図を見れば一目瞭然のように、南側には両国、錦糸町という2大繁華街があるのに、北側には目立った繁華街がない。しかも隅田川を隔てた台東区の浅草は、一昔前の寂れようがウソのように、人気急上昇中・・というわけで、スカイツリーによる活性化にかけた墨田区役所と東武鉄道の荒い鼻息が聞こえてくるよう(ツリー建設用地は東武の操車場跡地)。

押上駅前、北十間川にかかる京成橋から眺めたスカイツリー。脇の高層建築は
「イーストタワー」と呼ばれる、31階建ての複合オフィス・商業ビル。
これらを含めた「東京スカイツリータウン」の周辺には、当然ながら
大手資本によるショップや飲食店の進出ラッシュとなるはず。
さらにタワーの建設費は東武鉄道の単独出費であり、すでに高すぎると
不評を買っている入場料(いちばん上にあがるには大人料金3000円!)に
見られるように、その出費分をタワーと周辺の商業施設の売り上げで
回収しなければならない。墨田区はタワー誘致の理由を地域活性化と
経済波及効果としているが、果たして東武鉄道が、自社の利益に
直接つながらない押上・業平地区の地元商店街の振興に
手を貸す余裕があるのか、疑問視せざるを得ない

1958年(昭和33)年ごろ、北十間川から押上駅を臨む。江戸時代初期に
開削され下町の物流に貢献した北十間川。戦後は陸上交通の発達で
運河の役目を終えたが、現在は東京スカイツリーの完成に合わせて
護岸整備工事が進行中で、浅草と結ぶ観光船の運行も計画されている
写真提供/墨田区立緑図書館

とはいえ、ツリー見物に訪れた方ならだれでも気がつくように、ツリー脇の北十間川にかかる京成橋の上は、記念撮影のひとたちでごったがえしていても、駅前の商店街のほうは昼間からシャッターを下ろしている店が目立ち、夜ともなれば真っ暗になってしまう。

押上駅は京成押上線、都営地下鉄浅草線、東京メトロ半蔵門線、東武伊勢崎線という4つの路線が乗り入れる、墨田区北部のハブ・ステーションなのだが、「電車を使うひとたちはみんな地下道を乗り換えで歩くだけで、地上には出てきてくれないね」と、居酒屋のマスターもスナックのママも、みんな声を揃える。

1912(大正元)年11月に京成電気軌道(現・京成電鉄)のターミナル駅として
開業した押上駅。駅舎は現在の京成本社の社屋あたりにあったが、1960(昭和35)年、
都営地下鉄1号線(浅草線)開業にともない地下化された。写真は1957(昭和32)年
当時のバラック建てだった駅舎の様子
写真提供/墨田区立緑図書館

スカイツリー完成のあかつきには・・と期待したくもなるが、電車でやってくるお客さんは地下から直接ツリーに入っちゃうだろうし、団体客は押上駅前にできるロータリー広場にバスを停めて、ツリー見物のあとは浅草方面に異動してしまうはず、という悲観的な声が地元では圧倒的多数。地元の小さなお店が、高額のテナント料を払ってツリータウンの中で商売できるはずもないし、どうもマスコミの「ツリー完成まであと何日!」みたいなお祭り報道とは微妙な温度差を、押上で飲むたびに感じてしまうのだ。

商店街には、活性化の願いをこめたキャラクター「おしなりくん」が各所に。
名前の由来はもちろん、押上と業平から。在原業平をモチーフに、
タワーをイメージした烏帽子を被らせたそうです・・涙

押上から業平橋にかけては、ツリー完成後の値上がりを見込んでか、新築アパートやマンションも目立つのだが、スーパーはほとんどないし、商店街は活気がないしで、買い物や外食、夜遊びには自転車で10分かそこら、歩いても行ける浅草か錦糸町まで足を延ばす住民が多いとも聞く。

押上駅のそばには春慶寺という小さなお寺がある。400年の歴史を持ち、いまはビル寺院になってしまったが、そこには鶴屋南北のお墓があったり、鬼平犯科帳にも「本所押上・春慶寺」としてしばしば登場するし、王貞治の実家・中華料理「五十番」もこの境内を借りて営業していたという。

歩き回ってみれば、実はスカイツリー以外にも、そんな江戸ゆかりのスポットがたくさん隠れているのだが、それがなかなか「押上」という街のイメージと結びつかない。これだけ騒がれてる新名所がありながら、こんなに地味なままの街・・。押上のいまいちメジャーになりきれない原因が、もしかしたらそのへんにあるような気もするのだが、しかし! スカイツリーのお膝元を走る浅草通りと四ッ目通りの交差点(押上駅前交差点)を中心にしたエリアには、夜ともなればちらほらとスナックの灯りもともる。地元民以外にはあまり知られていない、押上の夜を今夜は飲み歩いてみよう。いまのうちに馴染みになっておけば、ツリーができてから遊びに来るのにも便利だし!

来週は中野区中野を飲み歩きます。

浅草通りと四ッ目通りの交差点を中心にしたエリアに、スナックも点在する

1964(昭和39年)にスタートした住居表示制度。新しく押上、堤通、
向島の10ヵ丁目が誕生した。写真は押上一丁目の街区表示板設置の様子
写真提供/墨田区立緑図書館

夜空にソソり立つスカイツリーを横目で見ながらの飲み歩き。一軒目は駅から地上に出てすぐ、押上通り商店街にある老舗店『すなっく チャボ』から。こちらは1961(昭和36)年12月8日に開店したという、今年で半世紀!の名店であります。

スカイツリーのお膝元、押上通り商店街の角にある『チャボ』

夕方6時半、すでに商店街は暗い・・

トリスバー時代の名残が商店街アーケードの看板に残る

カウンターを守る静江ママによれば、もともとはトリスバーとして、ママのご主人と、ご主人のお兄さん夫婦の3人で開店。そこにママが1971(昭和46)年に23歳でアルバイトに入って、「それからもう40年だからねえ・・」。バーからスナックになったのは、開店して20年後の1981年(昭和56)年のこと。その義兄もご主人もすでに他界、いまではママがひとりでがんばっている。ちなみに「チャボ」というユニークな店名は、「お義兄さんが浅草の人間で、近所のひとがチャボを飼ってたから店の名前にしたって聞いたけど・・・ウソかホントかわかんない(笑)」。

古風なカーテンつきのドアが歴史を感じさせる

わずか4.5坪の店が、常連さんで毎夜にぎわう。店の造りが
斜めなのは、バー時代に道路の拡幅工事で削られたため

ボックス席も完備、でも常連さんはみんな
カウンターに座って、ママと話したがる

「むかしはこの商店街も元気でね。いまは区画整理でずーっと工事中だけど、前は交番(押上駅前交番)から道路を挟んだところまで、お店がいっぱいあったからね」と、商店街に活気があふれていた時代を語ってくれたママ。当時は『チャボ』も、狭いカウンターの中に女の子が常時3〜4人も並んでいたそう。「このあいだ伝票を見ていたら、ハイボール50円、付き出しは塩豆…のみ(笑)」だったが、トリスバーだけにサントリー・ビールの売り上げには積極的に協力(当時はキリンじゃないと納得しないお客さんがけっこういたらしい)、「サントリーさんに感謝されて、佐治敬三さんの引退パーティに招待されたときに、最高のブレンドだっていうウイスキーもいただいたの」だそう。


壁に飾られた日活アクション映画のポスターは、
お客さんからのプレゼント

飲んだりカラオケ歌うだけじゃなくて、夕御飯を食べに来るお客さんもいるくらい、御飯メニューが充実の店でもあり、カウンターのボードにはずらりと料理が書き出され、「書いてなくても、なんでも作っちゃうから」と、静江ママは狭いキッチンをてきぱき動き回って、魔法のように焼き魚とか、鮪メンチカツなんてボリューム満点のお皿を、「はいよ」とカウンターから差し出してくれる。仕込みには毎日2時間。こんなにメニューが充実するようになったのは10年ぐらい前からだそうで、「だって女の子を使わなくなったし、カラオケだけじゃ商売にならないでしょ。だからうちはまあ、バーでもスナックでもなくて、“何でもあり”っていう店よ」とママ。

「私は第一興商と同じなのよ」と語る静江ママ。1971年入店以来
40年というキャリアは、業務用カラオケの最大手会社の創業年と同じなのだそう

こんな狭い調理スペースから、どんどん料理ができあがってくる

カウンターに掲げられたメニューも魅力的

『チャボ』とのお付き合いがママ以上、40年、50年と通い続けるお客さんもいるというが、ひとり客が多いのも特徴だとか。2〜3人で飲みに来ると、もう団体客扱いになるそう。しかもなぜか東北出身のお客さんが多いらしく、「私、生まれも育ちも東京だけど、お客さんを見たら東北出身だなって“肌”でわかるの。で、話かけると、やっぱり東北(笑)。だから同県人のお客さんを紹介するんです。そうすればもう、東北の話で盛り上がっちゃうから」と、東北人にはとりわけ居心地のいい店らしいので、東北出身のみなさまはアドレスブックにメモをお忘れなく。

冷蔵庫にはやっぱり「おしなりくん」がいました・・

すなっく チャボ 墨田区押上1-24-3

スカイツリーと北十間川を挟んだ一角、住所で言うと業平2丁目になるが、夜になるとぽつぽつ看板に灯が入る、小さな飲み屋街がある。北十間川に面して、まさしくツリーと対面状態のビル1階にあるのが『スナック・バー スカッチ』だ。

ツリーに見おろされるようなビル1階の『スカッチ』

アーチに囲まれたエントランス

『Scotch』の看板と「おいでやす」の白抜き文字が、微妙なマッチング

ツリーを仰ぎ見つつ入店してみれば、意外なほど広い店内を、女の子をひとり置いただけで切り盛りする英樹マスター。山口県出身で、バーテンダーとして大阪の高級クラブで勤めたのが、この道に入るきっかけだった。その大阪のクラブが東京・赤坂に支店を出すことになり、1964(昭和39)年、マスターも赤坂の店に勤めることになって上京。「そのあとは赤坂と銀座を行ったり来たり、いろんな店で働いてきましたね」。

入店して、まず目に入るのが、カンターとボックス・エリアを区切る
ボトル棚。かつてはもっと長い棚に、300本ものボトルがキープされていたのだそう

大人数の宴会にも充分対応可能な広い店内


『スカッチ』がオープンしたのは1975(昭和50)年のこと。もともとはママが居抜きで借り受けた店で、マスターはそのママにスカウトされるかたちで入店したという。店名ももともと『スカッチ』で、「領収書から伝票までい〜っぱい残っていたから、そのまま使ってしまおうと、(店名を)変えないで始めたんですよ(笑)」。

1980( 昭和55)年ごろには、隣の事務所が空いたので、壁をぶち抜いて、25人〜30人は入店できる大型店に改装。「あのころは儲かって儲かって、しょうがなかったです。ママはご主人と小料屋もやってたけど、とてもじゃないけど掛け持ちなんてできなかったぐらい」と往時を振り返るマスター。女の子も常時4〜5人は雇っていて、クラブのような雰囲気だったそうだ。

カウンターの仕切りには、ぬいぐるみがたくさん差してあった。「前に店に
勤めていた女の子が錦糸町でバザーに参加していて、そのときの売れ残りなんですよ」


そのママが2001(平成13)年に亡くなって、26年半のコンビの歴史が終幕、マスターがひとりで店を守るかたちとなった。もともと地元のひとよりも京成、東武、日本たばこ産業(当時は専売公社か)をはじめとする、押上界隈に勤める会社帰りの客が多かったという『スカッチ』。「バブルが弾けてからかな〜、お客さんが遅くまでいなくなったのは。あと、最初のころのお客さんが定年を迎えたのもね」と、近頃はお客さんも少なくなってしまったので、昨年5月からは昼の喫茶店営業も開始。サラリーマンのお客さんから「昼間、遊ばせておくのはもったいないから、ワンコインでやりなよって言われたんだよ」というのが始めた理由だそうで、メニューを見せてもらうとたしかに「ビーフカレー 450円」なんていう、驚愕の値段が並んでいる。

レジ脇には昼間の喫茶店メニューが

あまりにリーズナブルな値段設定に驚く。ビーフカレー450円って・・
「でも、去年までは400円だったんだよ」とマスター

「朝の9時には起きて買い物に行って、午前10時半か11時には店に来てランチの仕込みでしょ。喫茶店を午後5時ぐらいに終わらせて、今度は夜のスナックの仕込み。ふだんは12時ごろに閉店するけど、お客さんがいるうちは開けているからね。だから一日平均16〜17時間は働いているよ」という、激務の日々。しかも喫茶店は日曜日も営業しているから、「休めるのは日曜の夜だけ」。おまけに20年以上も糖尿病とお付き合いを続けていて、「インシュリン注射を射ちながら働いてるんだから」という孤軍奮闘の日々。マスター、あんまり無理しないでくださいね!

壁紙が渋い雰囲気のお手洗い


「この店に来てから、冠婚葬祭は別にして4回しか
休んでないよ」という、働き者の英樹マスター

スナック・バー スカッチ 墨田区業平2-18-3 寿々川ビル1F

浅草通りと四ッ目通りの角にある、というか残っていると呼びたい平屋の建物。長屋のように並ぶ店が3つ4つ。その真ん中で、お持ち帰り専用ドンブリ屋と不動産屋に挟まれて大きな看板を掲げているのが『和風スナック 宴』だ。

交差点に面した建物に、大きな看板が目立つ『宴』。名前の由来は
「私、暗いのは嫌いなの。お客さんがお店に来て帰られるまで、にぎやかな
時間にしたいんですね。あと『宴』を『えん』ってすると“運”はつくけど、
それじゃ色気がないでしょ、だから『うたげ』にしたんです」とママ

交差点に面してるし、1階だし、建物はボロいし(失礼!)、こりゃ気楽そうな店だと思ってドアを開けようとすると、あれ、カギが閉まってる。磨りガラスの向こうの店内は電気が点いてるし、「いらっしゃいませ、営業中」の札もかかってるのに。おかしいなとドアをガチャガチャやろうとして、脇のインターホン(テレビカメラ付き!)に気がついた。ボタンを押してみると、「は〜い、どなたさまのご紹介ですか〜」と明るい声。ここって、ドアチェックのあるスナックなのか!

遠くから見ると、すごく気楽そうな雰囲気

しかしいざ入店しようとすると、

インターホンでのチェックが待っている。オープン
当初から、ドアにはカギをかけていたそう

こちらの顔が人畜無害に見えたらしく、無事にドアを開けてもらうと、そこには笑顔が可愛らしい、着物に割烹着のママ。そしてものすごく細長い店内。しかも床はふかふか絨毯で、玄関で靴を脱ぐシステム! 外観からは予想もつかない、驚きに満ちたスナックでありました。

着物姿が美しい雅子ママ

『宴』の雅子ママは、陸軍軍人の娘として大阪で生まれたが、父親の転勤に合わせ小学・中学・高校は転校の連続。幼少のころには海を越え中国に渡ったこともあるし、転勤先のひとつだった横浜では、ママのお姉さんが美空ひばりと同級生だったこともあったが、終戦を迎えたのは山口県。転校、転校じゃあさぞかし大変だったでしょうと聞いたら、「私たち都会のお嬢様だったから、転校先が田舎だと男の子が、みんな味方になってくれたんですよ(笑)」ですって。

店内はご覧のとおりの細長いつくり

しかも入口で靴を脱ぐ、じゅうたんバーみたいなシステムが、
異様に落ち着く。「一日中、靴を履いていらっしゃるでしょ? だから、
ほっとして欲しいなあって。『ママ、今日は30分で帰るよ』って
お客さんがおっしゃっても、それが何時間にもなるの(笑)」

奥から入口方向を見たところ

戦後しばらくは山口で過ごしていたが、「自分がしたいことができるように勉強がしたいから、学校がたくさんある東京に来たんです。親子の縁を切るって言われて猛反対されましたけど」と、1974(昭和49)年に上京を果たす。30〜31歳のころだった。

単身乗り込んだ東京で、就いた職業が医療事務。選んだ動機は、「医療事務で生計を立てて、いろんな副業をやって、最後は養老院建設の夢を持っていたんです」。ちなみに、母親は助産師、姉は栄養士と、家族もまた医療関係の仕事に就いていたそう(お父さんは戦死された)。

 店内にはママお手製の、可愛らしい作品がたくさん飾られている



医療事務の仕事のかたわら日本舞踊や詩吟を習い、果ては2級船舶の免許(当時)まで取得したりと、仕事に趣味に大忙しの日々だったが、勤務していた病院の大先生に若先生も亡くなって、病院が閉院。ママも医療事務の仕事を辞めることにして、保険会社に転職、「そこはそこでほんとに楽しかったの!」。ところが家族に不幸があり、郷里に戻ったものの、1年後にはふたたび上京。自分では想像したこともなかったが、縁があって水商売の道に入ることになった。

「私、夜のお仕事はしたことがないから、ママになるにはどうしたらいいのかなって、銀座に行ったんです。どういう客層で、どういう接待をして、どんな料理を出すのか知りたくて、銀座のママってどんなものなんだろうっていう興味もあったし・・・6ヶ月の契約で店に行ったんです」という実地トレーニングののち、1985(昭和60)年に『宴』を開く。


もともと医療事務時代に勤務していた病院も、寮も押上にあったから、「病院時代から顔を知っている人も多いし、それにここだったら駅からも近いし、みんな集まりやすいでしょ」というママの読みどおり、ドクターやナースといった病院時代の知り合いに、新聞記者、警察関係、銀行関係まで常連さんが増えて、「チップはどんどんいただくし、押上ではいちばん高い店になっていました。知り合いの方からは、『宴』は高級店だよね、って言われて」という繁盛ぶりだった。

店の奥のドアを開けると、裏の奥にあるのが『宴』の
もうひとつの名物、共同トイレ。仮設みたいだが、しごく清潔

「・・外にもらすな 松茸のつゆ」

見てるだけで楽しい洗面コーナー

店内にはママが先生として教えてもいる、木目込み人形がたくさん飾ってある。お通しはかならず手料理だし、お店に先生まで引き受けて、じゅうぶん忙しいと思うのだが、無類の世話好きのママは、いまや東京都飲食業生活衛生同業組合・押上支部長、墨田区食品衛生協会副会長、墨田区料理飲食業組合連合会理事、押上料理飲食業組合・組合長と、飲食関係で4つの役職を兼務。しかも墨田区勤労福祉サービスセンターの理事職にも就いていて、昼間は毎日そちらのお仕事で飛び回っている。

いまは特に墨田区内の飲食業の、食中毒予防に尽力する日々だそうで、「私が自分で食品衛生の指導しますから、店から店へと歩き回ってばっかりで、ほんとに忙しいんですよ〜」と微笑みながら、ビールのグラスをキュッキュッと空ける姿は、とうていそんなお歳には見えない若々しさ。「ママと飲むと元気になる!」と言ってくれるお客さんが多いというのも、納得です。

「私、明眸皓歯(めいぼうこうし)と呼ばれていたんですよ(笑)」とママ。
美しい目元と歯並びを意味する、その言葉のままのすてきな笑顔でした

和風スナック 宴 墨田区業平4-17-1