2010年4月15日木曜日

広島市現代美術館で、ちょっとかわった館蔵展をキュレーションしました。4月24日から!

この5月22日より、広島市現代美術館で個展を開催します。2フロア、企画展エリアのほぼ全部を使った、けっこう大規模な展覧会なので、みなさまにもぜひご覧いただきたいのですが(詳細はまた後日、じっくりお知らせします)、それに先だって今月24日から常設展エリアで、美術館に収蔵されているコレクションから選んだ館蔵展『収蔵庫開帳! 広島ゆかりの作家たち 選・都築響一』を開催します。

広島に限らず、どこの公立美術館でもそうなのですが、ハイライトとなる有名作家の有名作品の陰に、収蔵庫にしまわれたまま、ほとんど展示されることのない「日陰のコレクション」がたくさんしまい込まれています。地元のしがらみとか、さまざまな理由でなかば無理やり寄贈されたり、全国的には無名の地元作家で、ほかに引き取り場所のない作品とか、とにかくめったにおもてに出ない収蔵作品が、数量から言えば美術館のコレクションの中でもかなりの割合を占めるわけです。

今回の展覧会は、そうした「陽の当たらない作品たち」に陽を当てようという、非常に珍しい企画です。考えてみればおかしなことに、どこでもハイライトのコレクションは外国や東京の作家たちで、日陰のコレクションは地元作家の作品であることがほとんどです。公立美術館とは、まずなによりもその地方の美術を活性化させることが第一目的であるはずなのに。

『収蔵庫開帳!』と題した今回の展覧会では、広島の地元作家、それになんらかのゆかりのある作家たちの作品で、なかなか展示室の壁に掛かる機会のないものを選びました。ほんとは、こういう企画を全国各地の公立美術館でやってほしいものです! だってゴッホはアムステルダムで、ピカソはパリで、ウォーホルはピッツバーグで見たほうがいいに決まってるでしょ。広島では広島の作家を見られないと。ほとんど全員、聞いたことのない作家たちだと思いますが、だからこそ見るまでわからない、というスリルが味わえるわけで。だって、本で見たことある作品ばっかりだったら、そこにはなんのスリルもないですもんね。

 すべての人間が平等であるように、すべての芸術もまた平等である・・・はずなのに、実際はそうじゃない。
 どこの美術館にも「顔」になる作品と、何十年も収蔵庫にしまわれたままの作品がある。
 どこの美術館でも「顔」になる作品は、有名で高価なものに決まっている。収蔵庫の奥に積まれたままの作品は、無名で安価なものに決まっている。
 有名で高価な作品とは、つまりほかの美術館にもあるってことだ。いろんなところにあるピカソ。いろんなところにあるウォーホル。いろんなところにある平山郁夫。
 無名で安価な作品とは、そこにしかないってことでもある。名が知られていない=業界で評価されていない=投資、投機の対象にならない=値が上がらない。「こういう作家、これこれの作品を当館はこれだけ収蔵してます!」と、美術館が宣伝しにくいコレクション。実は日本全国、どこの公立美術館も、そんな日陰のコレクションを山のように抱えている。けれど、そういう作品が「コレクション展」でクローズアップされることはまずないし、美術館の「全収蔵品リスト」みたいな分厚い資料をひっくり返さないかぎり、僕らにはその存在すら知るすべがない。そしてほとんどの場合、有名で高価な作品は外国や東京在住作家の作品であって、無名で安価な作品は地元の作家によるものなのだ。
 どこでも見られる作品ばかりを飾ってある展覧会は、どこでも出ている芸能人ばかりを並べた番組や雑誌のように、なんの新鮮味もない。いまからどんなに大金を積んでも、しょせんルーブルやメトロポリタン美術館のような“ナンバーワン”になれはないのなら、「ここでしか見られない」作品で”オンリー・ワン”を目指すしかない。だれも読んだことのない記事、だれも見たことのない写真、だれも考えたことのない本をつくろうと、あがきつづけてきた僕には、そうとしか思うことができない。そして、それを可能にしてくれるのは、ほかのどこでも見られる「顔」じゃなくて、ほかのどこでも見られないローカルヒーローたちの作品でしかないのだ。
  (ローカルヒーローであるために:展覧会カタログのための序文より)