先週からお伝えしているように、5月22日から広島市現代美術館で、ちょっと変わった大規模な個展が始まります。美術館のサイトでも内容の告知が始まったので、ご覧ください。
ポスターにも登場してくれている、今回の「イメージ・キャラクター」は、広島市民なら知らぬもののない超有名ホームレス、広島太郎さん。これから毎週、ボーナス・カットを1枚ずつお目にかけます! 携帯の待ち受けとかに、使ってください。
オープニング・パーティのある22日には僕のトークが、そして翌23日にはコラアゲンはいごうまんのスペシャル・ライブがありますので、こちらもご予約お早めに。
なお、これも前にお知らせしましたが、ひと足早く、先週からは同美術館内の常設展示会場にて、収蔵品によるコレクション展がオープンしています。いつもは収蔵庫のおくにしまわれたままの「むりやり寄贈モノ」(失礼!)を中心に選んだ、すごーく異例の展覧会なのですが、会場構成も作品とクレジットだけでなく、作家本人の顔写真と、その生涯を短くまとめた文章を作品の脇に添えた、すごーく異例な展示スタイルです。たとえばこんなぐあい;
竹澤丹一 TAKEZAWA, Tannichi 1907-1999
明治40年、竹澤丹一は広島市に生まれた。家は農家で、丹一少年は「気の弱い子どもで、いつも青い顔をして、腹をおさえていたので、青びょうたんといって、泣かされていた」という。小学校時代、通信簿に「甲」が並ぶなかで、ただひとつ「乙」だったのが、書き方。それを見た母が「今度はがんばりなさいよ」と言ってくれことが励みとなり、一途に努力するようになったと、後年述懐している。
昭和3年に師範学校を卒業して、最初に赴任したのが安芸郡府中小学校。その職場で出会ったのが、吉山キヨ子という女性教師である――「率直純情の女性で、なんとなしにこころ惹かれるようになりました。彼女も、そのうち私とこころが通じるようになりました。すばらしい縁談があったのに、ついに私と結婚することになりました。今日まで、結婚63年、感謝の気持ちで一杯です。中華料理好きな私のために、いつも研究しては食卓を賑わしてくれます。これが私の制作の源泉であると思います」と、妻への愛情と感謝の気持ちを、終生失わなかった。本人が亡くなる4年前に妻を失ったときには、「白蓮の花とともに散り逝きし、心やさしく真実一路の妻」と詠っている。
「書家でなく、画家でなく、芸術家でなく 米寿近く歩み来し我の足あと」と、みずからの境地を詠んで、「書でもなく、絵でもない作品」を生涯にわたって目指してきた竹澤丹一。お気に入りの赤い上着すがたで、「「わしゃ、日々よく寝て、毎食事がとてもうまい。体調も良い。これなら百歳までいけそうだ」というのが、晩年の口癖だった。86歳のときには「毎朝2時に起床してマグネタイザーを全身にかけ、からだ全体を温布摩擦します。この行事は朝晩絶対欠かすことなく、何十年もつづけています。夕食は午后3時に、パンと牛乳ですませ、午后6時半には、ベットに入りぐっすりよく眠ってます」と語っている。
とか、
高橋秀 TAKAHASHI, Shu 1930-
「わたしの祖父はもともと料亭旅館を営んでいたのですが、父が高橋写真館を福山市に開業したので、家族で移住したのです」という高橋秀。しかし父親は結核に罹って写真館を続けられなくなり、秀少年が8歳のときに亡くなってしまう。
戦時中は勤労動員となって鉄工所で働き、終戦となるころに中学卒業。職を二転三転したのち、画家になることを決意し、母の反対を押し切って昭和25年に上京」。武蔵野美術学校に入学するものの、学費が続かず半年で中途退学し、小出版社の使い走りに生活の糧を得ることになった。
翌年、独立美術協会の緑川広太郎邸に居候、制作の手ほどきを受けたのち、世田谷区に住居を構え、郷里から母を迎える――「緑川さんが家を建てた経験があるからと手伝ってくれて、先生のそばに土地を借り、自分で材木を買ってきては製材して、井戸を掘って、屋根も上げたんです」。
人形作りや絵本制作など、やはり出版関係の仕事をしていた妻と結婚して何年かしたころ、「実はおれ、これをやっていると本業の絵がだめになりそうだから、絵画制作に目鼻つくまで、収入目的の仕事は放棄するから生活の面倒をみてくれないか」と頼みこんで納得してもらい、絵画一本の道に入る。
「それでこれから、と思っていた矢先に、第5回安井賞に選ばれてしまったんです。本人としては不本意ですし、戸惑ったし、辞退すべきかどうか散々悩みました。しかし、お袋や女房はバンザイバンザイと喜んでおり、それを裏切るのもという気持と、いただけるものはもらっておくべきか、と受賞することにしました。そうしたら、すぐに画商がやってきて、安井賞作家としての絵を欲しいと言う。でも、それがもう描けなくて、描けなくて作品ができあがらない・・・。安井賞というスポットから逃げ出さなければ、行き詰まりにのたうつだけだと、悲壮な思いで日本脱出を考えました。それでそのころ、イタリアの給費額と経済指数がいちばんいいというのでイタリアを、そのイタリアでいちばんお天気がよいというので、ローマを選んだんです」。
昭和38年にイタリア政府招聘留学生としてローマに渡った高橋は、翌年からは家族も呼び寄せ、ローマを拠点に旺盛な制作活動を展開する。昭和53年には池田満寿夫監督による映画『エーゲ海に捧ぐ』の、美術監督とスチル写真も担当した――
「この時期の作品は、エロスを意識しだしたころでした。60年代後半に有機的なフォルムになり、70年代後半にかけてエロチックになっていくわけですが、有機的なフォルムからエロスに目覚めていくというか、そこに人間性というものをより感じたということでしょうか。多分にポルノ的なものにも関心があったし、それをいかに消化させていくかという部分もあった。エロックなフォルムになってきた出発というのは、もっとフォルムを膨らましたい、もっと広げたい、という膨らみ願望、それが繋がってきて女性のフォルムに近づいたということかな。膨らましたい、広げたい、大きくしたい、という無限、永遠願望からきたものです。コンセプチュアルで冷たい抽象は肌に合わないというか、わたしの生まれながらのサービス精神で、希望に膨らむ自由世界を気ままに浮遊する思いを、他人さまと共有したいという願望がエロチズムを生んだと。このエロチズムは、私にとってはヒューマニズムだなんて、無理なこじつけを言ったりいていますが・・」。
高橋秀は1989年、広島駅南口に設置された、宇宙船をイメージした噴水モニュメントによっても、広島市民に知られている。
といった感じ。「作品だけを見ろ! よけいな情報で作品を判断するな!」という、偉い評論家先生のおしかりが聞こえてくるような気がしますが、しかし! 無名の作家が作品集どころか、地元の公立美術館で、しかもコレクションに入っていても展示の機会さえ与えられないという現状では、とにかくどんなことでもいいから、まず観るひとが興味を持てるような引っかかりを作ってあげる、それで興味を持ってくれたら、その先は自分でいろいろ探してもらう、というふうにすべきだと、僕は思います。
異例ずくめの展覧会、しかも20数名の作家を「アイウエオ順」に並べるという、「ふざけてんじゃないの?」という構成ですが、見て歩き回るうちに、なんとなく納得できちゃう、そんな不思議な展示空間になっています。個展とともに、こちらもぜひご覧ください!