書、あるいは書道とはもともと文化人の素養として発達したものであって、それが「書芸術」になったのは昭和初期から戦後にかけてのことだという。そして解説を読まなくては意味のわからない現代美術があるように、作品タイトルが付されていないと読めない現代書、前衛書があるのはご存じのとおり。「美術としての書」、「造形としての書」という、文字を書いているにもかかわらず読むことのできない、それは抽象としての「書芸術」である。
文字を書くという、本来はコミュニケーションの手段であったものを、芸術として追い込んでいったあげくに「読めない書」というエクストリームに達した書芸術の、正反対のエクストリームにあって、奇妙に近づいているようにも見えるのが「アウトサイダーの書」だ。アウトサイダー・アートのうちで、絵ではなく文字を素材にした作品を便宜的にそう言ってみただけで、画家、書家のような区別はそこにないのだが、障害者と呼ばれる彼らの、文字によって構成された作品には、プロの「書芸術」に勝るとも劣らない緊張感と、書くことへの強い衝動と、得体の知れない美しさが同居していて、現代美術における書というものの存在意義を僕らに考えさせるのである。
齋藤裕一さん
齋藤裕一 「ドラえもん」(2005)色鉛筆、紙39.6x54.8cm 個人蔵
松本国三「無題」(2002)ペン、手帖、ノート:160 x 120 mm 見開き:155 x 230 mm
松本国三さんとお母さん
作品写真提供:小出由紀子事務所 http://www.yukikokoide.com/