もう50年以上、東京で生活しているのに、行ったことのない町がたくさんある。入ったことのない本屋もレコード屋も、食べたことのない定食屋もたくさんある。それから、飲んだことのないスナックも! 東京はひとつの都市じゃない。イクラのつぶつぶみたいに小さな町がくっつきあった、ぐちゃぐちゃの巨大な集合体だ。
夜、知らない町に降りたって、看板の灯りに惹かれてスナック街を歩くのは、夜間飛行にちょっと似ている。眠れないままに窓の外を眺めると、真っ暗な大地にぽつんぽつんと明かりが見える。ああここにもだれかが住んでるんだな、いまなにしてるんだろう。そうして退屈なフライトが、少し楽しくなってくる。
閉ざされたドアから漏れ聞こえるカラオケの音、暗がりにしゃがんで携帯電話してるホステス、おこぼれを漁るネコ・・。東京がひとつの宇宙だとすれば、スナック街はひとつの銀河系だ。酒がこぼれ、歌が流れ、今夜もたくさんの人生がはじけるだろう場所。
東京23区に、23のスナック街を見つけて飲み歩く旅。これから毎週チドリ足でお送りします。よろしくお付き合いを!
第2夜:世田谷区・三軒茶屋三角地帯
プリンのかぶりもので妙なコミックソングを歌う、AVEX唯一の演歌歌手ふたり組・東京プリンに『三軒茶屋の女』という歌があった。信じれるのはお金と犬だけ、渋谷から電車で5分、六本木からタクシーで20分、こんなところに住んでる女は所詮は無理め・・みたいな歌詞だったと思うが、しかし! 世間様が三軒茶屋に抱くイメージって、こんなに「無理め」なんだろうか。
246と世田谷通りが別れる三軒茶屋の通称「三角地帯」は、向かいのキャロットタワーが威圧するようにそびえる足元で、いまだ迷路のような路地が縦横に走り、初心者を途方に暮れさせる。それはもう数少なくなってしまった、終戦直後の闇市時代のなごりをとどめる、都心部では貴重な文化遺産だ。世田谷区というブランドイメージ、「渋谷から5分、六本木から20分」という交通至便なロケーションは、外から見れば無理めな女が住む街かもしれないが、内で飲み暮らすものにとっては、どこの小便横町にも負けない(失礼!)、昭和的な居心地よさのなかで夜ごと酔い潰れられる、フトコロ深い街なのだ。
1969(昭和44)年3月22日の三軒茶屋三角地帯を、車窓から望む。
まだ首都高のないころ。正面に写る路面電車・玉電は同年に廃止された。
(画像提供/まぼろしチャンネル、都電さん)
2011年の三軒茶屋。協和銀行がBIG ECHOになっている。
246の上を走る首都高を、渋谷から用賀方面に走って三軒茶屋に差しかかっても、見えるのはキャロットタワーとサンタワーズというふたつの高層ビル、それに大きなマンションだけだ。そのあいだの、ぽっかり空いた穴。それが三茶の三角地帯である。
キャロットタワーがそびえる、お膝元の三角地帯
世田谷通りから三角地帯の奥へ伸びる路地。
昭和へのタイムトンネルだ。
もともと三軒茶屋は関東大震災後に、当時渋谷と二子玉川を結んでいた玉電(玉川電気鉄道)があったことから、交通至便の地として人口が急増した街だという。ちなみに三軒茶屋が正式な地名になったのは、世田谷区が誕生した1932(昭和7)年だが、軍事施設が集まっていたことから(砲兵連隊群、駒沢練兵場など)、空襲を受け大きな被害を受けた。しかし終戦直後から焼け跡にバラックの商店街が出現、1950(昭和25)年にはいまの三角地帯の中核となる、仲見世商店街が建設されている。
いまはまとめて田園都市線と呼ばれるようになったが、2000年までは「新玉川線」と言っていた渋谷からの地下鉄に乗り、いちど地上に出て、田舎のローカル線みたいな路面駅だった世田谷線(みんな玉電と呼んでいた)に乗り換える。そのあいだに通るごちゃごちゃした三茶の街並みには、ちょっとしたタイムスリップ感を喚起する楽しさがあった。何年同じものを並べてるんだろうと、首をひねりたくなる個人商店。スナックのドアの前に置かれたオシボリ籠。食堂から路地に流れ出す煙と湯気。三本立ての名画座。屋上のバッティングセンター。肩をぶつからずにはすれちがえなさそうな路地・・。
三軒茶屋にはかつて5軒の映画館が集客を競っていた。いま残っているのは2軒だけ。
三角地帯のランドマーク的存在である三軒茶屋中央劇場は、古き良き2本立て名画座。
清水崑先生の黄桜を思わせる河童の看板が、あまりにも印象的。
切符売り場、板に手書きの演目・・これが名画座ってもんです。
かつて三茶中劇と並んでいた三軒茶屋東映は、三軒茶屋シネマと名前を変えてビルの上に。
1階は「肉のハナマサ」だ。
そういう、街の迷宮に絡め取られたい僕らには最高に居心地がよくて、きれいでお洒落で現代的なコンクリートとガラスの街を理想とする行政とディベロッパーには最悪に目障りだった、昭和の匂いの三軒茶屋。そこに再開発の波が押し寄せるようになったのは、実は1980年代中ごろからのこと。
三茶の一帯が5つの再開発区域に分割され、まず1985年に、世田谷通りの北側にある西友三軒茶屋店(元・ams西武三軒茶屋店)。そのあと1992年に246に面した三角地帯の用賀寄りにあるサンタワーズが建ち、1996年にはキャロットタワーが完成(これによって、世田谷線の駅は田園都市線の三軒茶屋駅から遠ざかり、乗り換えが不便になってしまった)。そして残るふたつが、キャロットタワーと西友に挟まれた、すずらん通りのある北側の一角(太子堂側)と、今回飲み歩く三軒茶屋2丁目の三角地帯なのだ。
いつ見てもドキドキする千代の湯入口。しかし現在も立派に営業中。
トタン板の塀には、立ち小便禁止の鳥居マークが。
しかしいまどきの若者に、意味がわかるだろうか。
再開発事業開始から20余年、ついに魔手が三角地帯にまで伸びてきたわけだが、地権者の数が多ことや(50人以上)、反対派もまだ2割ほどはいるらしく、なかなか実施に至らないのだとか。ひと安心と言いたいところだが、報道によれば、計画が進まないことにしびれを切らした賛成派地権者やディベロッパーが、全部で1.7haある三角地帯再開発エリアを東西ふたつに分け、とりあえず西側から先行実施、商業、事務所、住宅を兼ねた再開発ビルを建設する方向で、検討が進んでいるという。
ひとつでも巨大ビルが出現すれば、迷宮路地歩きの楽しみは消滅してしまうことは、キャロットタワー(しかしなんという命名だ!)でもおわかりのとおり。ある日突然取り壊されてしまう前に、東京都心部にいまだ残る貴重な昭和遺産を、こころゆくまで味わい尽くしておきたい。
来週は高円寺を飲み歩きます。
迷宮への入口。見上げれば白い手ぬぐいが夜風にたなびく。
強烈なオーラを放つ店が少なくない。
将棋好きが集まる店として有名な『赤トンボ』。
ショーウィンドウに、いつも見とれてしまう。
6つある三茶小路飲食店街への入口。しかし看板はものすごくわかりづらい。
三角地帯には「三茶三番街」、「なかみち街」、「ゆうらく街」、「ふくべ小路商店会」などと、路地ごとに名前がつけられている。なかでも迷路というか、迷宮感の激しい「三茶小路飲食店街」から、今夜は飲み歩いてみよう。
二階建て一軒家の『スナック・モナミ』は、これぞザ・スナックという外観で、僕らに「おいで、おいで」と呼びかける。しかし五島列島福江島出身、昭和6年生まれで今年80歳というモナミ・ママの店は、「フリーのお客さんは入れないの、特に男性だけはぜったい断ります」という上級者向け。高校卒業後、上京してまずは渋谷の伝説的キャバレー『渋谷チャイナタウン』で働きはじめ、下北沢で女性バーテンダーとして活躍。45歳のころに三軒茶屋でスナックを開業し、最初のお店を7年間。そのあといまの『モナミ』を開いてすでに28年、休みなしで営業してきた古強者である。
外観からして、こころなごまずにいられないスナック・モナミ。
夜になると、よく近所の猫がドアの前にちょこんと座っている。
ビロードのような布貼りの壁と臙脂色のカーテン、アップライトのピアノ、そしていまも稼働中のレーザーディスク! 高級感漂う店内は、溜息の出るほどノスタルジックで、いちど座ったらもう立ち上がれない居心地よさ。しかもお値段は信じられないほど良心的。ここは「スナック」という現代日本が生んだ庶民文化の、ひとつの完成形でありましょう。
スナック モナミ 世田谷区三軒茶屋2-13-4
しっとりと落ちついた店内。しかし一見さんはなかなか座らせてもらえない。
完璧なコンディションで稼働中のレーザーカラオケ・システム。
三茶でも2、3番目に入れたそうで、初期費用も当時で120万円という高額だったが、
カラオケ代だけで月に40万円の売り上げがあったという。
壁には若乃花、貴乃花の手形色紙。
高級クラブのような、落ちついた雰囲気を醸し出す調度。
モナミの入口脇にも、ひとひとり通るのがやっとの、三茶小路への入口が隠されている。
そのモナミママが、三軒茶屋で最初に開いた店が『スナック谷』。ママをつとめる千賀子ママが、モナミママから引き継いで今年で20年。常連さんからは「三茶の生き神って呼ばれてるの」という、笑顔が素敵なゴッドマザーであります。
ひっそりと看板を掲げるスナック谷。しかしドアの上部がガラスで、
内部が覗けるのは初心者にうれしいポイントだ。
千賀子ママをしたって夜ごと集まるお客さんは多士済々だけど、特に多いのが「国士舘の学生とOB、あと役者」。というわけでカウンター7席の小さな店でありながら、壁という壁は演劇のポスター、チラシ類が幾重にも貼り重ねられ、コラージュ・アート作品のようでもある。「でもね、ただ上から貼るんじゃなくて、お客の役者の名前が見えるようにずらしてあんのよ」と、優しい心遣いを忘れない。
路地のたたずまい、店内の密度、どこをとっても絵になる『谷』は、刑事物などドラマのなかで「怪しい場所として」よく使われるそうで、2008年には草薙剛と田中麗奈の『猟奇的な彼女』TVドラマ版でもロケ場所になったとか。
スナック 谷 世田谷区三軒茶屋2-13-5
ご自慢のピンク電話(お願いするとカウンター下から取り出してくれる)千賀子ママと、
常連さんのふたり。響大祐さんと翁長(おなが)誠さん、
どちらも役者兼売れっ子ナレーターだ。
ドアにも壁にも、演劇のポスター、チラシが張り巡らされて、
見ているだけで楽しい雰囲気。
前はレーザーカラオケを置いていたコーナーにはタバコ・・じゃなくて、
自販機用のプラスチック・モデルが。なぜここに?
夜ごとの盛り上がりを想像させるトイレ内の貼り紙。
そして最後に辿り着くのはいつも、おそらく三軒茶屋最古の現役スナック『オスカー』。看板に「BAR」とあるとおり、ドアを開ければすっと奥まで伸びたカウンター。白髪の渋いマスター。白いクロスを掛けたスツールと、いかにもクラシカルなバーのたたずまいだが、ちゃんとボトルキープもできれば、最新型のカラオケもあって、夜ごとに常連さんの熱唱が響いている。
ネオンの色、描き文字・・完璧な夜のムードを演出するオスカーの看板
映画音楽とジャズを愛するマスター。カラオケを歌わないときにはCDがBGM。
常連さんも一見さんも、分け隔てない接客がオスカー流。
地元世田谷に生まれ育った白石マスターは、終戦後に進駐軍のバーで腕を磨き、1960(昭和35)年に『オスカー』を開業。若いころは年間200本以上は見てた、という洋画マニアだったことから、『オスカー』と命名したそう。開店したころは「このあたりにはバーったって1軒しかなくてさ。当時はヤクザもいっぱいいたけど、みんな後輩だったから大丈夫!」というわけで、三茶の名物店として現在まで元気に営業中だ。
昭和9年生まれ、今年77歳の白石マスターに、20年ほど前からは息子さんもカウンターに入るようになって、もう半世紀を超えた店をふたりで守っている。ドアの風格といい、看板の文字といい、初心者には敷居の高そうなレトロ感が漂っているが、実はものすごくフレンドリーなサービス。一見さんでもぜんぜん大丈夫なので、三角地帯飲み歩きのシメには、ここのカウンターで白石マスターに気付けの一杯を作ってもらうべし。
オスカー 世田谷区三軒茶屋2-10-11
白石マスターと杯を交わす、常連のよしこさん。
現在72歳、「でも毎晩飲んでるわよ!」