2010年11月17日水曜日

大竹伸朗による『HEAVEN』書評

先月、大竹伸朗くんが新聞の書評欄に、『HEAVEN』の素晴らしい書評を書いてくれました。共同通信の配信のため、地方紙への掲載がおもになり、東京では読んでもらえる機会が少なかったのがあまりにも残念なので、本人の了解のもと、ここに転載させていただきます。

HEAVEN


 小島の安ホテル、ベッドサイドには非常用懐中電灯と並んで置かれた小ぶりの「聖書」—。本書を手にすると、そんなイメージが浮かぶ。人影のない漁港、鉛色の海と生臭い潮風・・天国(ヘブン)は案外こんなところかもしれない。
 本書は、著者の感性をもって、20年あまり追い続け捕らえた国内天国ダイジェスト編だ。
 スナック、カラオケ、ラブホテル、着倒れヤングに秘宝館・・。ページをめくるにつれ、人生街道は、表と裏で語れないメビウスの輪のようなものだと思い知る。北の岬のスナックでいつか呑んだ水割りが幸と不幸に溶け始め、「正解」とは「ザレゴト」とも読めることに思い至る。
 十数年前、彼が週刊誌に「珍日本紀行」を連載中、国内ローカル地20ヶ所あまりを断続的に同行した。目的やコンセプト、見返りも存在しない荒野に、ヌメッとドロッとポロッと在る、得体の知れない日本景のカケラを探し求め、風光明媚とは対極の「美の極北」を共に巡った。そんな道中の寂れた居酒屋で、目の前にドンッと置かれたパサパサでトホホなシシャモを見つめふと思った・・「本質は厄介に宿る」。
 この世には「厄介人」という人種がいる。彼らは、自身を厄介者だとはツユほどにも思わない。ありていに謙虚で不気味な風体だ。真の「厄介域」は因果律上にあり、都築響一はそこをピンポイントで感知し咀嚼して、「業」という名の胃袋に放り込む。
 厄介人の辞書に「徒労」の2文字はない。己がどんなゴミの山に埋まろうが、太陽系が口をつぐむ厄介ジジイになろうが、ただひたすらに我が道を爆走する。そこにこぼれる静かな笑みは次の創造物に連鎖していく。これって「真の幸福」ということだったのではないのか?
 定義なきままフラフラとおぼろげに「厄介粒子」が浮遊するこの混沌宇宙、そんなヘブンがこの本の中でグルグルとドス黒く回転している。


文中にも触れられているように、僕が週刊SPA!誌の連載『珍日本紀行』の取材で地方を回っている時期に、彼はいまはなき文芸誌『海燕』の表紙から始まるカラー・ページの連載を持っていて、ずいぶんいろんな場末をいっしょに旅して回りました。こんなところで何ページ分も絵が描けるんだろうか?と心配せざるを得ないような、なんの変哲も特徴もない田舎の街角で、大竹くんは突然立ち止まっては電柱の剥がれかけた貼り紙や、壁のシミや、落っこちそうな看板やらを熱心に写真に撮っていて、何ヶ月か後にはそれがすごく風情のある油絵や色鉛筆画になっている・・そういう創作のプロセスを脇から見ていられたのは、僕にとっても最高に貴重な、そして勇気づけられる体験でした。

僕の旅は『ROADSIDE JAPAN 珍日本紀行』になり、そして今回の展覧会『HEAVEN』に結実しましたが、大竹伸朗の「国内ローカル地めぐり」は、1999年に発表された『ZYAPAИORAMA 大竹伸朗日本景』にもっともクリアーにまとまっています。未見の方は、ぜひご一読を!