2011年1月26日水曜日

ジム・オルークになにが起きたのか! 『矢切の渡し』レッスン風景



ツイッターを見てくれてないかたがたのために、ふたたび報告。


友人から教えてもらって悶絶したのがこのYoutube映像。ジム・オルークが『矢切の渡し』をレッスンしてもらってる・・・なぜに??? しかも超真剣! 母国アメリカのファンたちにこの勇姿(?)を見せてあげたい。




ソニックユースのメンバーでもあったジム。ウィキペディアによれば、「好きなアーティストはジョン・フェイヒー、ヴァン・ダイク・パークス、デレク・ベイリー、武満徹、小杉武久、高柳昌行、メルツバウ、細野晴臣、加藤和彦、はちみつぱい、金延幸子、ハナタラシ、戸川純、若松孝二」だそうだが・・・演歌まで手を伸ばしていたとは。そしてレッスンをつけてくれている四方章人さんは、演歌カラオケ界では有名な先生であります。


ちなみに司会進行の瀬口侑希ちゃんは、大阪の有線放送会社で営業職しながらレッスン重ねて歌手デビューした、がんばりやさん。僕も過去に『月刊カラオケファン』で自宅訪問インタビュー、『エスクワィア』で、レコード屋キャンペーン取材をさせてもらってます(ずいぶんちがう2誌だが)。どっちもしばらく単行本にならなそうなので、ここに写真と文章、再録しておきます。


月刊カラオケファン 2007年11月号 わが家にようこそ♪ 瀬口侑希



演歌歌手といえば旅回り。レコード屋の店頭からカラオケ喫茶まで、唄えるところはどこでも行ってキャンペーン––そういう苦労がまず思い浮かぶ。でも「キャンペーンで回れるだけ、いまは幸せ、キャンペーンしたくてもできないのって、いちばんつらいですから」と言うのは瀬口侑希さん。神戸から出てきて、今年が東京9年目。今年の春に待望のファースト・ミニ・アルバムを出して、いよいよこれからブレイクか、というタイミングだ。
昭和45年生まれというから、今年32歳になる瀬口さんは、当然ながら演歌じゃなくてアイドル世代。「聖子さんに明菜さん、マッチやトシちゃん、それにおニャン子とチェッカーズ!」という少女時代を送っていた。
小さいころから歌うのが大好きで、神戸放送合唱団に入っていたが、家の近所に歌謡学院があるのをお母さんが発見。それが松山恵子さんと同じ学校を出て、杉良太郎さんのお師匠さんだったという先生が教える教室だった。
「アイドルとか習いたいな」と門を叩いた少女に、先生は「貴臣ちゃん(たかみ=本名)の声はね、歌謡曲のほうが向いてるんだよ、いちど演歌みたいなものを持っておいで、レッスンしてあげるから」という意外な反応。「有名な先生だし、説得力あるし、あたしの声だけでそう判断してくれたのだから(先生は盲目だった)」と、半信半疑のままレコード屋に行って相談したら、「こういうのが合うよ」って選んでくれたのが『あばれ太鼓』。それに神野美伽さんの『男船』。小学生の女の子に、渋い選曲しましたねー、レコード屋さんも。
お父さんが船乗りで、航海に携えていく演歌系のレコードはいっぱいあったけれど、それまで特に聴いたことなかった貴臣ちゃんは、中学に入っても勉強と部活と唄の勉強をかけ持ち。そうして高校1年生の時に、兵庫県猪名川町にやってきたNHKのど自慢に出場、見事チャンピオンに輝く。
そのとき歌ったのは島津亜矢さんの『出世坂』だったという。「高校生なのに本格的な演歌志向だったんですねえ」と聞いたら、「舞台映えのする歌はどんな曲なのか、研究に研究を重ねて。とにかく目立つのを選んだんです!」とのお答え。そりゃ高校一年生で、歌に込められたこころを・・とか言っても、無理だしねえ。
その勢いで年末、渋谷のNHKホールで開かれたグランドチャンピオン大会にも出場、ところが「優勝どころか、なんの賞ももらえなくて、それが悔しくて!」。その悔しさで、自分はやっぱり歌が好きなんだなあと再確認したそうだ。
高校を出たあとは大学に進学。学校の休みには東京に出て歌のレッスンに励んでいたが、いざ卒業、就職という時期になり、先生に「就職先のひとつとして歌手はないですかって言ったら、歌手って職業はね、自分がなりたいだけではなれないんだよって、厳しく諭されました」。



やむなく大阪で有線放送の会社に就職、営業で飛び回っているうちに、歌の先生からラジオの文化放送のオーディションがある、と教えられる。おそるおそる上司に言ってみたら、その部長さんがもともと音楽家志望で、「僕は夢を諦めた。でも会社員として部長まで来た。だから満足してるし、部長としては言えないけど、人生の先輩としては、夢を追いかけている後輩を見たら、今ならまだ間に合うんじゃないかと言ってあげたい。家と会社の往復では、結局なにも見つからないよ。、チャンスがあるならいけば!」と励まされ、OLを辞めて「ラジカセとスーツケースひとつ持って」上京する。
オーディションを待ちながら、同じ文化放送でアルバイトも始め、そこでたくさんの先輩歌手や芸能人にもアドバイスをもらえるようになった。オーディションに受かったあとは『走れ! 歌謡曲』で、今度は裏方から出演する側に回り、24歳の終わりになって歌手デビュー。それからは年1枚のペースで新曲発表、「ずーっと忙しいまま」で突っ走ってきて、「丈夫な体に生んでもらって、感謝してます!」という毎日。この部屋で過ごせる時間もほとんどないけれど、「少々家に帰れなくても、苦でもなければ逆にうれしいくらい。この仕事で家にずっといるようじゃ、しょうがないですし」。
CDジャケットの写真を見ていくと、1作ごとにすごく雰囲気がちがう、多彩な顔を持つ瀬口さん。ミニアルバムでは『骨まで愛して』なんて意外な曲にも挑戦してるので、ぜひご一聴あれ。

ESQUIRE 2009年1月号 東京秘宝 第2回 商店街のレコード店と店頭キャンペーン



♪乱れた文字です 最後の手紙
女の祈りが 届くでしょうか
かもめも飛ばない 港に着いて
「あなた」と叫べば 雪になる・・・

賑やかさと場末感が微妙に入り交じる秋の暮れの商店街。肌寒い風の中を家路に急ぐ人々が行き交う街角に、一群の中高年の男女が肩を寄せあっている。そのかたまりの中心に立つ、場違いなドレスに肩まであらわにしながらマイクを握りしめ、絶唱する女性歌手。ここは北区東十条商店街のレコード店・ミュージックショップ(MS)ダン。今宵はいま売り出し中の若手演歌歌手・瀬口侑希(せぐち・ゆうき)の店頭キャンペーンなのだ。
神戸に生まれ、高校一年生でNHKのど自慢チャンピオンになった。一時はOL生活に入るも歌への夢が捨てきれず、ラジカセとスーツケースひとつ持って上京。文化放送でアルバイトしながらオーディション挑戦をくりかえし、24歳の終わりになってデビュー。それからすでに9年目で、文化放送の『走れ!歌謡曲』の隔週レギュラーを担当するなど、ようやくスター歌手への道を走りはじめたいまも、「店頭キャンペーンは1回でも多くやりたいんです!」と真顔で話す。
レコード店の前に立って、道行く人に向かって歌いかけること。それは歌手を目的にお客さんが来るリサイタルとは根本的に異なる、厳しい時間だ。家や駅に向かって、あるいは夕食の買い物にあわただしく歩き、自転車のペダルをこぐ人々の足を、自分の歌声で立ち止まらせ、30分かそこらの時間、引き留めておかなくちゃならない。自分のことを知って、聴きに来てくれてるわけじゃない。おもしろくなければ、いきなり立ち去ってしまう。からかい半分、見世物見物気分の野次馬だって、ときにはからんでくる。お客さんとの距離は数十センチ、なにが起こっても、逃げ隠れする場所はない。それでも演歌の歌い手は、ひとつでもたくさんの店頭キャンペーンをスケジュールに入れたくて、みんな必死だ。
TOWERとかHMVとかTSUTAYAとか、レコード店がアルファベットの巨大店舗を意味する前の時代、店の前に立って道行く人に新曲を聴いてもらう店頭キャンペーンは、ごくあたりまえの風景だった。商店街のレコード店という存在自体が滅亡の危機にあるいま(この商店街にもレコード店はMSダン1軒のみ、書店にいたってはひとつも残っていない)、演歌歌手にとって新曲をプロモーションできる機会は、極端に限られている。巨大レコード店はJ−POPのアーティストは呼んでくれても、演歌歌手のインストア・ライブなんて許してくれないから。
MSダンは、都内に数軒しか残っていない、「店頭キャンペーンのできるレコード店」だ。月におよそ15回、ほぼ1日おきにキャンペーンが組まれ、いまや演歌歌手の登竜門として、業界では知らぬもののない名店である。
昭和24年、現在の山中喜三雄社長のお父さんが東十条商店街に開いたレコード屋が、MSダンの始まりだった。「あと継がないんだったら閉めるから」とお父さんに言われ、武田薬品に勤める営業マンだった喜三雄さんが店を継いだのが、昭和43年ごろ。「もともとレコードはけっこう高額商品でしたから、お客さんは限られてたし、音楽産業は景気に関係ない業種でして、再販商品で定価は守られてるし、レコード屋にはいい時代だったんですね」と当時を懐かしむ山中さん。サラリーマンより給料はいいし、不安はなかったそうだが、「これだけ音楽業界が変わるとは、予想もしなかったですねえ」。
大阪のバンドマンだった井上大佑が、8トラックのカラオケを発明したのは昭和46年。東京のFMラジオ局J−WAVEが”J−POP”なる造語を使い出したのが昭和63年、時代が平成にかわる前年だ。このふたつの出来事が、日本の歌謡音楽業界を大きく変えることになった。
いまや品揃えの9割が演歌というMSダンも、お父さんの代にはごくふつうのレコード店だったという。それが「カラオケが台頭してきて、J−POPもでてきて、これからどうしていけばいいんだろうと思ったときに、小さな店なら対面販売しかないだろうと思ったのね」と山中さん。
対面販売できる音楽のジャンルは、3つある。クラシックとジャズと演歌。それに対してJ−POPは、飾っておけば黙ってても売れる、コンビニ商売だ。お客さんが店に入って、買って出ていくまで、ひとことも言葉を交わさなくてもいい。そういう商品を、大規模店舗と競っても勝ち目はないだろう。「それで3つのうちのどれをやろうと考えたときに、ジャズとクラシックは、生半可な知識ではお客さんに負けてしまうけど、演歌なら身の丈のもので大丈夫」と、店の奥の棚を演歌の対面販売用にしたのが、”演歌の登竜門・MSダン”の始まりだった。
ときはバブル真っ盛り、「小室さんとかのCDが3000円でも飛ぶように売れる時代に、1200円とかの演歌のシングルCDを、手間暇かけて売る、それを我慢してやってきたんで、いまがあるんです」。伍代夏子、坂本冬美、藤あやこ・・いまや大スターとなった数多くの歌い手が、そんな演歌・冬の時代にMSダンの軒下に、間に合わせで作られたステージから旅立っていった。
そしてバブルは弾け、景気に関係なかったはずの音楽業界も店舗大型化と貸しレコード店の登場、音楽配信の普及という激震の中で、どんどん店舗数が減っていった。「だからいろんな店がいまはね、緊急避難として演歌をやろうとしてるんですよ」。ぬるいビールを注いだときの泡みたいに、ふわふわ業界を覆っていたJ−POPがなくなって、底に残っていた演歌というコアな音楽ジャンルが、表層に見えるようになってきた––––いまはそういう時代なのかもしれないと山中さんは語るが、それまでJ−POPばかり売っていたレコード店が、いまになって演歌歌手のキャンペーンに来てくれといっても、根っこを支え続けてきたMSダンのような店にはかなわない。それだけの時間をかけて人間関係を築いてきたのだし、「よその店は、キャンペーンなんて”売れたら来てよ”だったでしょ(客寄せに)、うちは売れない時代から、ずっと一緒でしたから」。それではようやく演歌にも春到来かと思いきや、「いまの演歌は聴く演歌じゃなくて、残念ながら歌う演歌なんですよ、うちのお客さんは音楽を探しに来るんじゃなくて、教科書を探しに来るんですから」と、教えてくれた。
いま、カラオケで歌いにくい曲は売れない、と演歌業界人は口を揃える。山中さんの意見も同じだ––––「昔は好きな人のレコードを買ってましたよね。いまは、自分はこの歌手は嫌いだけど、歌えるからって買うんですよ。そうすると素人の歌える域で、曲を作るじゃないですか。難しくしないから、みんな同じ曲調の歌になっちゃう。それでますますCDが売れなくなっちゃう。だから聴かせる歌というのを我慢してみんなに歌ってもらって、聴かせるものに徐々にスライドしていけば、もっとパイは広がるはずなんですけど。それができないのが、いまの苦しさですねぇ」。
店を演歌専門にシフトするとき山中さんと、”ダンママ”と呼ばれる業界名物・博子さんのふたりがまずやったのは、「曲をいっぱい聴くこと」。徹底的に曲を勉強して、来てくれたお客さんの好みを把握したら、「レコード探してるでしょ、そのときに”これ聴いてみて”って、ほかのも薦めちゃうんです」。こういう商売は新興宗教みたいなもので、「ダンさんに行けばいいレコードを教えてくれる、って信じてもらっちゃえばいいんですから」と山中さんは笑うが、その信用のバックには膨大な知識のストックがあり、歌手とレコード会社との信頼関係があり、さらに独自のサービスがある。
「うちね、僕の代になったときに、レコードの配達を始めたんですよ。本屋さんはやってますよね、配達。レコード屋はなんでやらないんだろう?って。ちょど8トラックのカラオケ・カセットが出てきたときに、スナックからよく注文があったんですけど、お店の人は買いに出てこれないでしょ、届けてよと言われて始めました」。僕も子供のころからずいぶんレコード店にはお世話になってきたが、配達してもらえるお店というのには、いままでひとつも出会わなかった。「ほかにやってる店ないからね、ずいぶん不思議がられたけど。いまみたいに近所にレコード屋がなくなると、遠くから来てくれるお客さんに在庫がないからって二度来てもらうのも大変でしょ」。
いまでもCDシングル1枚から注文を受けて、山中さんはみずからオートバイに乗って、都内全域に配達して回っている。中古盤屋じゃないからLPはないが、意外に多いのがカセットテープ。店の入口にも生カセットがずらりと積んであるし、店内の品揃えでもカセットが棚をいくつも占領している。いまだにカセット、買う人いるんですかと尋ねたら、演歌のカラオケ・レッスンではいまだにカセットが主流なのだそう。「レッスンだと曲の一部分を抜き出して歌ったりすることが多いんだけど、CDだと巻き戻しの操作が難しくて、覚えられない人が多いんだよね」。なるほど・・・お稽古用にまとめて300本購入、なんて先生がいるそうだから、AV機器メーカーはちょっと考えたほうがいいのかもしれない。
「僕らが作ってるんじゃなくて、お客さんが勝手に写真撮って、額装までして持ってきてくれちゃうんですよ」という、演歌歌手たちの写真が天井から無数にぶら下がり、もちろん壁という壁はサイン入りのポスターで埋め尽くされ、小さいながらも演歌の殿堂というべき貫禄たっぷりの店内。「店頭キャンペーンで人が集まるか、集まらないか、それは歌い手の力量だけど、とりあえず歌いに来てもらったのにイヤな思いをさせて帰したくない、それだけは気をつけて、お客さんがあまり来なくてもフォローするようにしてます」という山中さん。温かい飲み物を用意したり、「商店街の催しが重なったから、あまり集まらなかったんだよ」と声をかけたり、「若いときによくしてもらったお店よりも、辛い思いをさせられた店の名前はぜったい忘れないって、ベテランさんはみんな言いますから」と笑うが、同時に「店先で歌ってるのを見てて、売れる子っていうのはよくわかる。お客さんにも関係者にも、ちゃんと気配りできる子ですね。ちょっと売れて勘違いする子は、やっぱり業界で長生きできない」と、クールな評価眼を忘れてはいない。
「水森かおりさんだって、もともと近所で高校生のころからうちに遊びに来てたけど、デビューから紅白歌合戦まで10年近くかかってるでしょ、それが最高に順調なほうですから」という演歌業界。最短距離を走っても売れるまで10年、”苦節”という言葉が当てはまらない歌手が、たぶんひとりもいない厳しい世界で、MSダンのような存在は、どんなメディアよりも貴重なサポーターであるはずだ。